妻の死

[山口県 男性 通訳 63歳]

イラスト  25年間連れ添った女房が死んだ。10日ばかりひどく苦しみ「生きたい」と訴えていたが、やがて「疲れた」と呻いて息をひきとった。心の優しい女だったのに、現代医学は役立たなかった。大動脈症候群という難病だった。葬儀が終わり荼毘に付し、位牌を一体受け取って、また職場に戻った。
 勤務中の8時間は今までと同じような緊張とテンポで時間が流れたが、午後5時、作業が終了する。通用門をくぐって大きな川までやってくるとふと気がつく。家に帰ったところで、もう誰も待っていないのだと。わが家には外灯も点いていないし、夕食の準備もされてはいないだろう。そう思いながら私は橋上に車を停めて西の空を仰いだ。夕焼が山肌や川筋を朱色に染めあげている。家族が不在だからといって、別に行くあてがあるわけじゃない。仕方なくギアを入れて家に向かう。部屋に入るときらびやかな家具が暗闇に沈んでいる。数年後に会社を退職すると、郷里にわが家を新築する予定だった。そのために妻は家具を一つひとつ買い揃えていた。私はぼんやりとそれらを見やった。長い夜を迎えても、何も為すことがなかった。何をしようとも思わなかった。夕食は近所のうどん屋で簡単にすまし、テレビの前に寝転んだ。眼前で画面が跳るが、無意味な現象だった。思考はいつしか生前の妻の面影を追った。家具の前に立ったまま私の肩に手をかけ、脚をからませる。それが妻の幸福のポーズだった。愛妻を亡くした今、私自身生きていることの理由さえ掴めなかった。
 そんな孤独な夜が3ケ月つづいたある日、「妻の死」と題して新聞に投稿した。するとその記事が掲載された夜から電話が鳴り始めた。郵便受けに封書が毎日配達された。こうして全国から届いた70通の書簡と数多くの電話が私を孤独から救い上げた。慰めと励ましの愛の言葉の力強い渦が。


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