1998.09
仏式葬儀の起源

  現在、日本の葬儀の9割以上が仏式であるといわれるが、仏式葬儀の形式のルーツはどこにあるのだろうか。各宗派は葬儀に経典を読むが、そこに書かれている内容は葬儀そのものと関係があるとは思えない。仏教とは釈尊の教えであり、釈尊自身は弟子に、「自分の葬儀は町の者がするから、出家した弟子たちはそれにかかわらずともよい」と述べているからである。しかし仏弟子たちは釈尊の葬儀に積極的に参加している事実も見逃せない。
  日本で現在行われている仏教葬儀で見られる慣習のルーツは、釈尊の涅槃直前の様子や釈尊の葬儀などを起源としているものといわれるので、それを見ていくことにする。
  釈尊は長い伝道生活のあと、老年を迎えて身体の衰えを隠せなくなった。自分の死期を感じ、南方のマガダ国から数百人の弟子を連れて北方に向かって最後の旅に出た。旅を続けて約半年後に、釈尊はクシナガラで死を迎えた。時に80歳であった。


釈尊の父の葬儀

  釈尊が68歳の年、ヴェーサーリの大林精舎で雨期を過ごしていた。そこに釈尊の生まれたカビラ城から使者が来た。釈尊の父である浄飯王が自らの死期を予知し、息子に会いたいという知らせであった。釈尊は浄飯王の病いの知らせを受けると、弟子たちを伴いカビラ城へと出発した。
  釈尊は王を見舞い、宮中の人々に仏法を説いた。釈尊がカビラ城に着いてから7日目に王は息を引き取った。王が崩御されると、釈尊は重臣たちと葬儀の準備を進めた。たくさんの香料を溶かした汁で王のからだを洗い、きれいに拭きとったあと、絹の布で全身を覆い棺に納めた。7つの宝石で遺体を荘厳したあと、棺を台座の上に安置し、真珠で編んだ網を垂れめぐらした。そのあと華を四方に散らし、香をたいて死者を供養した。
  棺を葬場に送る際、釈尊は親の恩義に報いるために自ら棺をかついだ。釈尊の弟、子供、従弟も棺をかついだ。親に対する最後の孝行は、その遺体を最後まで守ることだろう。この棺をかついだ4人は、浄飯王の子供、甥、孫にあたる。日本の葬儀において、故人の実子、兄弟、孫と言った血縁の者が棺をかつぐ習慣がある。これは釈尊を始めとする因縁の深い人々が、浄飯王の棺を擔いで葬儀を営んだことに由来している。なおそのあと火葬に附しているが、これはインドの伝統的な葬法である。

 

湯かんの起源

  遺体を棺に納める前に香水で洗浴する。これが仏葬における湯潅の起源である。遺体を洗う行事は原始仏教時代から行われたといわれる。経典の中に次のような記録がある。
  仏教を奉ずる僧侶が葬式から帰ったが、体を洗わない。俗人がそれを見て、「釈尊の弟子は浄潔を尊ぶと言うが、決して清浄ではない。葬式に列し、遺体に近づいたにも拘わらず、体を洗わないのがその証拠である」と非難した。釈尊はそれを聞いて、「体を清めないことはよくない。遺体に近づいた者は洗浴せよ」と言って、弟子たちに体を洗わせた。釈尊は、「遺体に触れた者は身体も洗い衣服も共に洗え、遺体に触れなかった者は、手と足を洗えばよろしい」と言った。
  インドでも遺体を不浄と考える習慣があったようである。インドの古代の法律である『マヌの法典』に、「死体に触れた者は10日後に清められる。その死せる師のために葬儀を行う学生もまた10日後に清められる。火葬場に死体を運ぶ者も同様なり」とある。

 

霊前読経の起源

  『毘那耶雑事18』に、葬式の際に僧侶の中で経文や偈頌を読誦する事に長じた者が、『無常経』や偈を読誦し、死人のために咒願せよという記事がある。咒願というのは、死者への冥福を祈る意味で、現在の回向にあたる。早い時代から仏弟子が葬儀を行い、読経を行ったと考えられる。
  死者に法話引導することは、釈尊も行ったと思われる記録がある。死者の家庭を訪れ、親族の人々に対して説法されたことは、『法句譬喩経』にでている。浄飯王が崩御された時にも、釈尊は弟子、宮中の臣などの人々に説法している。
  このような釈尊の行動を見ると、檀家や信者が、死者のために誦経、供養や説法を依頼されることがあれば、その求めに応じることは衆生を導くための機会ともなった。

 

転輪王の葬儀

  釈尊は阿難尊者に、3か月後に入滅するとの宣言をされた。阿難尊者はこの宣言を聞いて大変に驚いたが、それは変えられない事実であった。そして自分は釈尊の葬儀をしなければならない。そこで、釈尊にどのような葬儀をしたらよいかとの指示を仰いだところ、転輪王の葬儀を模範とするようにと答えた。
  転輪王とは、天下を統一する伝説上の帝王のことで、戦争に大変巧みな王のことである。この転輪王は俗世界を支配する王であるが、自分の葬礼はこの転輪王を模範として行えと言われたのである。
  では転輪王の葬儀はどのように行うのか。まず王の身体を絹綿で包み、その上を新しい麻布で包み、金棺を作ってその中に油を入れて死体を納める。さらに外側を鉄の棺で囲み、二重棺にするといわれている。
  そのあとあらゆる香木を焼いて火葬にした。わからないのは、鉄の棺では焼けないのではないかということだ。油を入れるというのは、遺体保存の役目もあるが、やはり火力を強めるためであろう。現在、ガンジス川河畔での火葬を見ていると、薪の上に直接遺体を乗せて焼いている。そして骨が完全に焼けないまま川にほうり込んでいる。

 

釈尊の死の告知

  死の告知は、死が前もって知らされていなければならない。現代は医療の発達があって病名がはっきりしていれば、その経過もだいたい予測できる。仏教は真実を追及する教えであるため、死に直面することもいとわない。釈尊の場合、自分の死ぬ時期を告白した最初の相手は悪魔であった。悪魔は釈尊に向かい、あなたはすでに地上での役割を果たし、弟子たちもあなたの教えを守っていきますので、いまこそ涅槃に入ってくださいとお願いする。それに対して釈尊は「悪魔よあせるな。私はあと3カ月したら涅槃に入る」と。これを聞いて、悪魔が喜んだことはいうまでもない。

 

釈尊最後の食事とお斎(おとき)

  釈尊はマツラ族の住むパーヴァーに行って法話をした。法話は大変感動的なもので、これを聞いた鍛冶工のチュンダはお礼として釈尊を食事に招いた。食事は大変に豪華なものであり、かつめずらしいものであった。そしてなかに釈尊にしか消化できない料理が出てきた。そこで釈尊は弟子にそれを食べるなといい、自分だけはそれを口にした。そのあと釈尊はこの食事にあたり、死ぬほどの苦痛を生じた。この釈尊が食べた料理は謎とされているが、きのこ料理の一種であるといわれている。なおこの食事をささげたチュンダは、大変に後悔したが、釈尊はチュンダを許している。
  さて法事の食事を普通「お斎(おとき)」という。インドで時食と非時食という言葉があり、時食は僧侶が食事をする時間であり、非時食は僧侶が食事をしてはいけない時間を指した。これが日本にも伝わり、時食が斎(とき)という言葉にかわっていったものと思われる。

 

末期の水の由来

  家族や親戚の人が、臨終をむかえた人に末期の水をささげる習慣が現在にも残されている。筆先に水をつけて唇を湿らせたり、新しい綿に水をしめらせて唇をぬらしたりする。この末期の水をささげる行為は、釈尊の臨終に阿難尊者が水を差し上げたことにもとづいている。
  釈尊は旅の途中、食事にあたって苦しんでいた。彼が滞在していたパーヴァーという町は、小部落のために医者もいない。そこで長い道のりではあるが、医者のいるクシナガラまで帰ることになった。その途中、小さな川の辺で休憩を取られた。
  釈尊は喉が渇いて仕方がないので、同行の弟子の阿難に川の水を汲んで飲ませてほしいと頼んだ。しかし近くの川は水が濁っていたので、遠くの川に汲みに行くことを提案した。しかし釈尊は近くの川で汲むことを願った。釈尊にしたがってもう一度出かけでみると、すでに川はきれいになっていた。そこで阿難尊者は器になみなみと水を汲んで、釈尊に差し上げた。釈尊はおいしいと言って水を飲んだ。この水が釈尊の最後の飲物であった。

 

釈尊の死装束

  仏式の葬儀では普通、納棺されるときに白の経かたびらを着る。これは巡礼の際に着る装束で、巡礼の途中に道で倒れるとその衣装のまま火葬にされた。さて釈尊の場合、マツラ族のプックサという人から、金色の衣装を贈られた。弟子の阿難はこれを釈尊に着させた。ビルマなどにある寝釈迦像の衣装が金色になっているのも、プックサから贈られた金色の衣装を着ているからである。この衣装はそのまま釈尊の死装束となったわけである。

 

沙羅双樹と紙華花の起源

  釈尊は多くの修行僧と一緒に、クシナガラにむかって進んだ。クシナガラの入口にバツダイ河があり、その辺までたどり着いたが一歩も動けなくなってしまった。バツダイ河の東側の堤一体は、沙羅双樹の林となっており、釈尊はこの林の中で休みたいと言われた。
  阿難は沙羅双樹の林の中に石の台を見つけたので、ここに釈尊に休んでいただいた。そのとき沙羅双樹が一面に花開き、空からは白檀の花が降り注いだ。
  釈尊の涅槃の模様を描いた図では、横になっている釈尊の四方を大きな樹木が、4本あるいは8本描かれている。これが沙羅双樹である。根元が1本で途中から2本に分かれて描かれている。日本の葬儀には、この紙華花を用いる習慣が全国で見られる。これは、釈尊が沙羅双樹の木に囲まれて亡くなられたことから、一般の人の葬儀にも象徴として使っている。白い華にするのは、釈尊が横になったとき、沙羅双樹が白い花を咲かせて供養したことに由来している。ただし日本では、土葬のときに埋葬した土地の四隅にこれを置くことがあったから、魔避けなどの呪術的な用い方をしたことも考えられる。

 

頭北面西の由来

  人が亡くなると、改めて布団の位置を変えて敷き直す。特に頭を北向きにして寝かせるという慣習がある。これは釈尊が入滅したとき、頭を北に向けて休まれたということに基づいている。
  バツダイ河は北に水源があり、南に向かって流れている。この河の東側にある沙羅双樹の林のなかで、釈尊は頭を北、足を南、右脇を下、顔を西に向けて休まれた。これを頭北面西といい、右脇を下にする寝方を獅子臥の法と言っている。

 

臨終の知らせと涅槃

  阿難はクシナガラの町に行き、集会場で釈尊の死の近いことを告げた。町の人々はこれを聞くと、大勢の人々が最後の説教を聞きに釈尊のもとに集まった。釈尊の死を涅槃に入るという。涅槃の境地は覚者だけが到達できる境地であるので、凡人が亡くなっても涅槃に入ったとはいわない。釈尊がもうじき涅槃に入るという知らせを聞いて、土地に住む120歳の学者のスバドラも釈尊の教えを聞き、弟子になりたいと願った。
  釈尊は最後の教えを説くと、静かに涅槃に入った。阿難が釈尊の涅槃を人々に伝えると、大地が震え、天の太鼓が鳴り、そして花が降り注いだ。

 

釈尊の最期の言葉

  釈尊は最期まで意識がはっきりしており、枕もとにいる修行僧たちに最後の言葉を残した。それは、「修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい』」これが最後の言葉であった。入滅したのは満月の夜といわれ、わが国では2月15日に涅槃会がいとなまれる。

 

最後のお別れと通夜

  釈尊が亡くなると、人々は嘆き悲しんで、一目でもいいから仏を拝することを願った。阿難尊者は、この願いを聞き入れて、大勢の尼や女性信者たちに前に進むことを許した。そこで女性たちは遺体に近づき、さまざまな香や花をささげた。阿那律(あなりつ)をはじめ、多くの弟子たちは釈尊の遺体の左右にはべって、教えについて語りながら夜を明かした。

 

死の供養

  阿難は早朝にマツラ族の集会場に行って、釈尊の死を告げた。これを聞いた人たちは悲しんで泣き、地面に倒れた者もあった。
  そこでマツラ族は従僕たちに「町にある香と花輪と楽器をすべて集めよ」と命じた。これを聞いた人々は、出来るだけ多くのお香と花輪と楽器と布地をもって、釈尊のいる沙羅樹の林に向かった。布でいくつもの傘を作り、幕を幾重にも張りめぐらした。そして釈尊を音楽と花輪と香で供養した。このようにしてその日は過ぎた。
  その日の夜、族長たちは阿難尊者に、釈尊のために7日間の供養を申し出た。阿難尊者から了解を得ると、マツラ族は翌日も同じように音楽で釈尊を供養した。こうして7日目に火葬をする日を迎えた。その日の昼、マツラ族は釈尊の遺体を音楽で供養しながら、南の町まで運んだ。人々は町を掃除し、道に浄水をそそいで到着を待った。そして遺体を乗せた御輿が城内に入ったとき、天からは華が雨のように降り、遺体のあとに多くの人々が従った。

 

釈尊の葬列

  8人のマツラ族の指導者は頭から水をかぶって体を清め、新しい衣装をつけて釈尊の遺体をかついだ。しかし遺体がびくとも動かない。これは遺体を南に運ぼうとしたからである。そこで彼らは北の門を通って町の北に運び、北門から町の中央に向かい、そこから左に曲がって東門から外に出た。町を出て、川を渡って宝冠寺に至り、その堂に御輿を降ろした。

 

一本樒(しきみ)の由来

  迦葉尊者が500人の弟子を連れて遠方にいたとき、釈尊の病気の知らせを聞いた。看病にと急いでクシナガラに向かう途中、手にまんだら華をもつ旅人に出会った。葬儀に長く枝のついた一本花を持つ習慣があるので、葬儀があったのであろう。そこで彼に釈尊のことを問いただすと、すでに一週間前に死亡し、その葬式に出てこの華をもらってきたと語った。これを聞いた迦葉は、火葬に遅れないようにと道を急いだのであった。
  日本にはまんだら華はないので、かわりに葬儀に一本樒を使う。樒の実はインド原産で、鑑真和尚が日本にもたらしたといわれている。

※樒(しきみ):シキミ科の常緑小高木。「しきび」とも言う。「」とも書く。)

 

香木での火葬

  インドでは火葬で香木を使うが、日本では、葬儀の時に抹香を焚いて焼香する。抹香を用いて焼香し、香木供養にかえるのであろう。
  インドでは釈尊の時代より火葬が行われていた。祭壇の火葬する所に香木を積み重ね、その上に棺を安置し、油を注いで火をつけて火葬にする。葬儀には花を捧げる他、12尺ほどの香木を持って死者を供養する習慣がある。この香木は火葬の薪に使用するのである。

 

釈尊の火葬

  マツラ族は阿難に遺体の処理の仕方を尋ねた。そこで阿難は、釈尊から聞いた方法を彼等に告げた。
  そこでマツラ族の人々は、釈尊の遺体を新しい布で包んだ。次にほぐした綿で包んだ。次に新しい布で包んだ。このように500重に釈尊の遺体を包んで、鉄の油桶に納めた。宝冠寺の中庭に香木を積み、そこに釈尊を納めた桶を乗せ、転輪王と同じように鉄の缶でふたをした。そして香油をそそぎ、マツラ族の4人の族長が薪に火をつけようとしたが点火しなかった。それは、釈尊の弟子の迦葉尊者の到着を待っておられたからである。
  そのとき迦葉尊者は火葬場に到着した。彼は左肩だけにかけ直して、合掌して薪の回りを3回右にまわり、釈尊の足元に礼拝した。このとき棺に入っていた釈尊の足が姿をあらわしたという。このように迦葉と修行僧が礼拝したとき、火葬の薪は自然と炎をあげて燃え上がり、棺のなかの遺体を焼き上げた。

 

還骨法要のルーツ

  こうして釈尊の灰もすすもきれいに燃え、棺のなかは遺骨だけになった。そのあと天から雨が降り注いで火葬の薪を消した。荼毘がすむと、マツラ族の人々は遺骨を集めて金のかめに入れ、集会場に運んだ。かめの回りを柵で囲むと、7日の間音楽と香で供養した。
  日本でも火葬を終わった遺骨を自宅の後飾り壇に安置して、還骨法要を行うが、そのルーツはここにあるといえる。

 

釈尊の舎利

  釈尊の入滅が各地に報道されると、七つの国の王が、釈尊の舎利を分配してほしいとクシナガラへ要求した。こうして舎利は8分の1ずつ各国に分配された。分配がすんだあとに、モーリア族が同じように申し出をした。しかしすでに遺骨の分配は終わっていたので、使者は荼毘の灰を持ち返った。こうして釈尊の遺骨は8つの卒塔婆が作られてそこに納められた。またモーリア族は灰の塔を作って祀った。

 

卒塔婆の起源

  釈尊の遺骨を祀る習慣はいつから始まったのだろう。仏教の卒塔婆の場合には、釈尊自身が阿難尊者に述べたことによる。
  釈尊は、自分の遺体を火葬にしたあと、四つ辻に卒塔婆を作るべきであると言っている。そして「そこに遺骨を納め、花輪または香料をささげて礼拝する。これは悟りを得た人の卒塔婆であると思うと多くの人の心は静まる。そして死後には天の世界に生まれることが出来る」
  このように釈尊は語った。

 

仏舎利の発見

  1898年、ネパールの国境近くのピプラーヴァで、フランス人の考古学者ペッペが舎利壷を発見した。その表面に「これは仏陀世尊の舎利を納める器である」と記されていた。

 

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