1998.06
葬儀はどう変わるか

  西暦2000年まであと2年、何が起きてもおかしくない時代である。葬儀だけは変わらないという訳にはいかない。ではどのように変って行くのだろう。


死をタブー視するようになったのは、いつごろからか?

  「死をタブー視するようになったのは、20世紀のはじめのアメリカからである。」これはフランスの歴史家フリップ・アリエスの言葉である。
  アメリカ人が求める幸福や繁栄という価値観の前に、死や悲しみは暗く、幸福の反対に位置するものとして排除されはじめた。アリエスは、西洋の死の価値観の変遷を4つに分けている。
(1)飼いならされた死=中世に至るまでの人々の考え方で、死をあらかじめ予測し、その死をあまんじて受け入れた時代。もっとも素朴でたくましい考え方。
(2)個人化した死=病人は、死後の審判という出来事を前に、自分のこれまでの生き方がもたらす死を考えざるをえなくなった。これは12世紀ころ生じるようになった考え方である。
(3)他人の死=18世紀のロマン主義時代に顕著になったもので、友や愛人などの死がドラマチックに描かれる。
(4)野性化した死=現代である。死は人目につかない場所(病院)などで管理され、逆に死が恐ろしいものとして野性化した。死がタブー化された時代。
  以上簡単に要約したが、アリエスは『死を前にした人間』のなかで、多くの資料を読んでそれを明かにしている。

 

死のタブーからの解放されてきたのはいつごろからか?

  アメリカは現在、死に関する書籍の出版や悲嘆の研究が進んでいる。ではなぜ死のタブーが取り外されたのか。一つにはアメリカのベトナム戦争参戦があると思われる。ベトナム戦争の長期化で、連日アメリカ国民の戦死がマスコミを通して報道された。死はもはや隠しきれない現実となり、これがアメリカの楽天主義を打ち砕いた。長い歴史のなかで死がタブーであった時代はたかだか5、60年間のことだったのだろうか。

 

アメリカで火葬が増大した理由は?

  アメリカでは1970年の中ころより火葬が増えてきた。火葬の多くは葬儀をしない形式である。
  1990年の調査では、火葬した人の45%が伝統的な葬儀を行っているが、17%は式をまったく行わなかった。その当時の文化に何が生じたのか。文化現象の多様化、つまりアメリカ的な文化からアジア的文化、南米文化などが見直されて来た。そして火葬もそのなかにあった。人々の多くは一定の場所に定着しないので、家の近くの墓地に埋葬することや、それを管理することに束縛されなくなった。そこで埋葬から火葬となり、火葬が散骨の流行を促した。これが日本と大きな違いである。

 

日本では死がタブーであったのはいつのことか?

 日本では江戸時代、明治時代に、死がタブー視されていたのだろうか。それともアメリカと同じように20世紀に入ってからか。
  死がタブー視されるようになったのは、よく言われるように、病院で死亡する人の割合が高くなり、家庭で家族の死んでいくプロセスが見えにくくなったということが、死がタブー視されるようになった理由だろう。
  また日本人は「言霊(ことだま)」意識の強い国民のため、死を暗示する言葉を使うとそれが現実化することを恐れて、用いなかったということもあげられる。確かに病院には「4」という数字がない。こうした日本人の「言霊」意識は薄くなっているが、だからといって「死」のタブーから解放されているとはいえない。

 

日本人は遺骨を大切にしているか?

  日本では火葬が8割以上を占めているので、遺体に執着することはできない。では残された遺骨に執着するかというとそうでもない。遺骨は骨壷に入れられて魂の依代(よりしろ)になっているとも思われない。依代は、遺骨よりも位牌の方が近い。
  洗骨の習慣のある地域では、肉体が完全に腐敗したときに、魂が解放された印としてとらえ、骨を洗って墓に祭り直すことが行われる。洗骨の習慣があった沖縄でも、火葬が定着してきた。火葬であれば、洗骨という習慣はありえない。
  遺体処置には大きく火葬と土葬とに分けられるが、これがその国の文化に大きくかかわっている。アメリカでは火葬後の遺灰のうち、40%は散骨、16%が埋骨、8%が骨壷に納める。40%は散骨するという数字には驚く。日本では考えられない数字である。なぜこんなに差が出来たのか。日本で火葬が普及したのは明治に入ってからである。そして火葬後の遺骨を墓に納め、毎年お墓参りをするという習慣がある。しかしアメリカでは、お墓はあくまでも死者を埋葬する場所であり、遺骨になったものを墓に納めるという伝統がない。また死者を追善するという習慣もない。なぜならプロテスタントでは死者は死んだらすでに死後のあり方が決定されており、死後にお祈りしても手遅れだからである。
  浄土真宗では位牌を作らないが、これはプロテスタントの考え方に似ている。つまり死んでから位牌に追善供養して死者を成仏させるというのは、非常に人間本位の考え方であるのに対し、浄土真宗では、すべてを阿弥陀様の慈悲におすがりするという立場をとるからである。

 

土葬と火葬の違いは何か?

  土葬をする宗教には、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教がある。これらの宗教では、神による最後の審判のあと、信者の肉体が神の前に復活して永遠に生きるという思想が根底にある。このため、肉体を焼くことを禁じているのである。これに対して火葬を勧めているのはヒンズー、仏教があげられる。この2つの宗派では、死者の魂は新しい肉体のなかに輪廻するので、前の肉体は脱ぎ捨てられまったく必要がないことになる。
  では彼等の遺骨の扱いはどうなのだろう。ヒンズー教では遺灰はガンジス河に流される。南伝仏教でも焼骨の一部が保存されるだけである。そして遺骨が尊ばれるのは釈尊の遺骨だけである。あくまでも釈尊の法力を賛美するためのものなのである。

 

キリスト教で、火葬が認められたのはなぜか?

  教会が保有する墓地も、遺体を埋葬する区画に限りがあり、年月がたつと墓に埋葬された遺骨を共同墓地に納めて、その区画に新たに死者を埋葬する。しかし都市部では新たに霊園を確保しない限り、埋葬することが不可能となっている。一方、合理的な考えをもつ人々が登場して、火葬する人が増えてくると、教会でもその流れを無視できなくなる。そして反対しきれなくなると、それを取り込んだ方がよいと判断するようになる。現在では教会では火葬した遺骨を預かるいわば納骨堂などの設置にも力を入れている。しかし伝統を守るユダヤ教やイスラム教ではまだ火葬を認めていない。

 

日本人の葬儀の考え方はどうなるか?

  葬儀は、その地域で行われている方法を守るという時代が続いた。しかし、それまでの共同体から離れ、新しい場所に移り住むと、葬儀は伝統から確実に切り離されたものとなる。葬儀の参列者が一時的な人間関係のなかで築かれたものとなり、やがて身内だけが参加するものに変わっていく。現在、葬儀の会葬者は友人と地縁、そして会社関係者によって成り立っている。しかしやがて地縁や会社関係者の参列が減り、親族とごく親しい友人だけの葬儀となっていくことが考えられる。それは結婚式も海外で行って、披露宴が縮小されていく形と似ている。
  こうした流れになった理由に、葬儀が会館で行われるようになったことがある。自宅で葬儀を行う場合、近所の人が会葬に訪れるが、自宅と会館が離れている場合、わざわざ会館まで会葬に行かないケースが出てきた。会社関係ではどうだろう。企業が合理化され、無駄が見直され、会社の経費で香典を出したりすることが反省されることがあげられる。
  若い人のあいだで、意味のないつきあいはしたくないというドライな考え方が増えている。上役から誘われたら喜んで従うというスタイルではなくなってきた。こうした世代が喪主になるころは、葬儀の形式も大きく変わるだろう。

 

日本人の墓の考え方はどうなるか?

  現在墓をもっている人は、その墓を今後も維持することが問題となる。しかし墓のない人の場合はどうか。墓は安いものではないし、毎年管理費がかかる。自分が死んで遺骨が墓に納められても、後継ぎがいなければ、墓は返さなければならない。墓石は買うものであるが、土地は借りているからである。墓をもたない家庭が5割あり、この墓のない家庭のうち、2割の人が後継ぎがないとすると、この2割の人たちは自分の墓をもたないまま死んでいくことになる。この人が亡くなり跡取りがなければ、その人の財産は国家のものとなるが、遺骨までは国家で管理してはくれない。火葬した遺骨は引き取り手がなければ、いずれ処分されることになるだろう。
  若い人のお墓についての考えを調べた調査によると、「墓は死後の安息の場である」に対してノーが70.6%。ところが「従来の慣習にしたがって墓に入ろうと思う」はイエスが67.9%、イエスと答えた学生のうち「将来、墓に入るとしたら配偶者の家の墓に入ってもいい」と答えた学生が71.6%と高い割合を示している。つまりどちらでもいいという態度といってよいだろう。ところがマスコミでもとりあげられ、よく知られている流れとして、妻が夫の家の墓に入りたくないというものがある。これは女性の独立心の問題を死後(墓)にまで拡大したものである。女性の方が平均寿命が長いので、多くは夫の方が先に死亡する。そして、夫が祖先代々の墓に入ってしまったら、残された妻はどうするのだろう。

 

既成宗教の果たす役割はどうなるか?

  若い人たちは精神的な事柄に結構関心をもっているが、ただし既成教団の教えには満足していない。それは既成教団が生まれた時代と今日の人々が抱えている問題がまったく違うことに理由がある。もっとも教団としても、若者に迎合したくないという立場があるだろう。
  宗教は本来、その時代時代の悩みを癒すべく登場してきたのであるから、既成教団も今日的な問題に無関心ではいられないはずである。今日の哲学や芸術、科学の成果も取り込んでいかなければ、ますます取り残されるだろう。したがって戒名料がいくらであるとか、焼香回数などのしきたりというものは人間の精神的向上や悩みの解決に貢献することはないから、早急に手を打たないと新しい価値観を持つ世代に完全に見限られるだろう。

 

仏壇の普及はどうなるか?

  仏壇は本尊をお祭りするよりも、先祖の位牌を安置するために使われていることが多い。そのため家族の一員が死亡してから購入することが多い。しかし都市部ではスペースの関係で小型仏壇が普及するものと思われる。今後も位牌や骨壷を安置する場所として利用されるだろう。

 

葬儀の生前契約はどうなるか?

  両親の葬儀の場合、相続財産のなかから葬儀費用を賄うことが多い。葬儀費用は相続税から引くことが出来るので、遺族の腹が痛まないと言ってもよい。したがって、財産がある家庭では葬儀費用の心配はないので、生前に葬儀契約をするという人はそれほど多くならないだろう。ただし、身寄りのない高齢者の一人住まいの者にとって、自分の葬儀には心配がある。そういう人には、生前葬儀契約のニーズがあるだろう。生前契約は安いことを売り物にしているが、値段もさることながら、自分が死んだときにどれだけ頼りになるかがポイントとなるだろう。

 

公営火葬場はどうなるか?

  死亡者数が年々増加すれば、必ず火葬場の絶対数が不足する事態が到来する。しかし、火葬場を作るには費用だけでなく、地元住民の建設反対の問題にも出くわす。こうした反対を避けるためにホテルと見違えるほどの外観で、霊柩車の乗り入れ禁止を条件とした施設となるだろう。また、火葬場のなかに葬儀式場や納骨堂を備えた、ワンストップ火葬場も計画されることが考えられる。

 

ホテルでの葬儀はどうなるか?

  ホテルでの葬儀は社葬を骨葬という形で行う程度で、個人がホテルを借りて葬儀をするということはないだろう。ホテルでの葬儀はあくまでもホテルがもっている接客機能を使えるというところにメリットがある。しかし、問題は遺族側にある。遺族は密葬をし、さらにホテルでの葬儀が待っているとなると、その精神的な苦労が引き続き、その間、緊張から解放されないのである。これは寺院を借りての社葬でも緊張は同じではないかと思われるが、やはり遺族にとって悲嘆のイメージとホテルのイメージがしっくりこないのである。もっとも、「お別れ会」であれば別である。これならば、会の主催者を別に立てて、喪主に負担がかからないからである。

 

散骨の普及はどうなるか?

  散骨は葬儀に代わるものではなく、あくまでも火葬した遺骨の行方の問題である。これが現在それほど伸びていないのは、散骨の業者が少ないことと、散骨の遺言が少ないなどの理由があげられる。しかし将来的には業者を通さず、個人的に散骨をする人が増えることが考えられる。しかしそれはあくまでも遺族が個人的に山や海に出かけて散骨するという形をとり、散骨届けを提出するものではないので、その数は把握できないだろう。

 

納骨堂の普及はどうなるか?

  納骨堂は寺院などが運営する納骨壇に骨壷を納める施設である。費用は霊園よりも安く、交通も便利のところが多いので、霊園よりも納骨堂の利用者が増加することが考えられる。実際、霊園数は横ばいであるが納骨堂は増加傾向にある。ただしお盆やお彼岸にお参りすることを考えると、霊園の方がお参りしがいがある。たとえ納骨壇には遺骨が納められているとしても、墓石とはやはりどこか違うのである。ここがネックなので、お参りしやすい墓石型の納骨堂もあるという。

 

香典返しはどうなるか?

  先に会葬者は減少すると述べたが、親戚関係はあいかわらず葬儀に参加し、かつ香典を贈る慣習は維持されるだろう。そして身内の葬儀であれば香典額も少なくないので、香典返しをしなくなるとは考えにくい。ただし会葬者が減少する分だけ香典額が減少することは予想される。

 

死亡者数と葬儀費用はどうなるか?

  平成9年度の死亡者数は91万7千人で、前年より2万1千人増加した。死亡者数は毎年増加し続け、統計上でピークとなるのは平成48年(2036)の175万9千人である。ただし死亡数は倍増するが、葬儀に費やされる費用の年間総額が現在の2倍になるということは考えにくい。現在葬儀をする割合が死亡者の9割として、葬儀費用(寺院に支払う費用を含める)を1件あたり250万円と仮定すると、合計2兆円となる。平成48年には、人口あたりの65歳以上高齢者の割合が30%前後になっており、葬儀費用の総額が現在の2兆円を超えないとすると、一件あたりの葬儀費用の平均金額は、現在の半額の120万円となる。あまり先のことではピンとこないから、10年先の2008年でみると、死亡者数は128万人、うち115万人が葬儀をすると仮定し、トータルが2兆円で換算してみると、1件平均170万円位になるだろう。ただし葬儀費用、飲食費、寺院費用、香典返しのなかでどの部分がもっとも節約されていくのかは未定である。

 

葬儀料金はどうなるか?

  先に葬儀料金の平均を150万円としたが、東京都では330万円ほどかかっている。内訳は葬儀社への支払い130万円(39%)、寺院関係64万円(19%)、飲食費45万円(13%)、香典返し91万円(27%)である(東京都生活文化局平成8年発表)。このなかで、たとえば無宗教葬儀で香典はご辞退しますという方法で葬儀を行ったとすると、この330万円から寺院の64万円と香典返しの91万円が引かれて、175万円で葬儀が行えることになる。また香典を持たず食事だけ頂くのは恐縮であるとなると、食事代が引かれ、葬儀社への支払い分である130万円だけが残されることが一つの方向である。また身内だけの葬儀という形をとり、そこでは食事や香典返しもあるが、全体に費用が節約される形も考えられる。

 

平均額

定額層
葬儀社へ 130万円 50万円未満(20%)
寺院 64万円 25万円未満 (18%)
飲食費 45万円 20万円未満 (22%)
香典返し 91万円 25万円未満 (13%)

  実際、先の東京都の調査のなかでも、葬儀社への支払い額の平均が130万円であったが、9%が50万円未満、20%が50万円から100万円の葬儀を行っている。こういった意味では、平均金額というものよりも、低い料金で行う人の割合の推移をみていくことが大事かもしれない。それでいくと、寺院関係では平均64万円であるが、25万円未満が18%あり、また戒名料を支払った人は62%とあり、戒名料の25%近くが20万円未満であるという。同じく、飲食費は平均が45万円であるが、20万円未満が22%とあり、また香典返しも平均が91万円であるが、25万円未満が13%ある(表)ことも見落としてはならない。

 

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