1998.01
死者と聖人の祭

  死者の祭は世界中にある。日本にはお盆があり、欧米ではハロウィーン、中国では清明祭が有名である。こうした風習の他、聖人の命日を偲び、それを賛える集まりがある。こうした法会は、各宗派の本山を中心として毎年行なわれている。次に紹介するものは代表的なものである。


◇釈尊忌 涅槃会(ねはんえ) 3月14〜16日

  釈尊が入滅した日とされている旧2月15日(現在は3月15日)には、全国各地の寺院で法会が行なわれる。
  涅槃会の歴史は古く、日本では推古天皇(554〜628)のとき、奈良の元興寺(がんごうじ)で行なわれたのが最初。この日、各寺院では釈尊の死の様子を描いた涅槃図(ねはんず)を掲げ、また釈尊が弟子に与えた最後の説法である『遺教経』(ゆいきょうぎょう)を読んで、釈尊の生前の遺徳を慕び讃えるのである。京都市東山区本町の東福寺では、3月14日〜16日に、仏殿で室町時代の画家、明兆作の「大涅槃図」が公開される。
  奈良市の興福寺、大阪市天王寺区の四天王寺では「常楽会(じょうらくえ)」と呼ぶ法要が行われる。京都市東山区にある泉涌寺(せんゆうじ)の涅槃会は、江戸中期に描かれた日本最大の涅槃図が公開される。また長野県善光寺のお会式(おえしき)は有名である。京都嵯峨の清涼寺での御松明(たいまつ)も由緒があり、本堂の涅槃図の前で念仏した後、釈尊の荼毘(だび)を再現する。
  涅槃とはサンスクリット語のニルヴァーナで「吹き消すこと」、そこから煩悩の炎を消し、転迷開悟した境地をさす言葉となり、「悟り」と同義語となった。伝記によると、釈尊は29歳で出家し、35歳で悟り、80歳で入滅するまでの45年間、人間の苦しみを解決する方法を説き続けた。臨終の地はクシナガラ城に近いバッティ河のほとりで、釈尊の死の模様を伝えたものに『大般涅槃経』がある。釈尊は2本のサーラ樹の間に用意された床に、頭を北に、顔を西に向け、右手を枕にして眠り、そのときサーラ樹に白い花が咲き、次々とその花びらが降ったといわれる。
  涅槃会については、西域からインドを旅行した唐代の三蔵の『大唐西域記』に、相当古くから行なわれていたことが記してある。

 

◇空海忌 正御影供(しょうみえいぐ) 3月21日

  真言宗の開祖・弘法大師空海が入定(にゅうじょう)した3月21日に、大師の影像を奉安して報恩謝徳のために行なわれる法要。
  空海(774〜835)は、承和2年3月21日に高野山で入定したが、それから70年後の延喜10年(910)に、京都市南区にある東寺(教王護国寺)で法要を行なったのがはじまりとされる。このときは大師の影像が金堂の西の灌頂院(かんじょういん)に奉安されたため、灌頂院御影供とも称された。広い大師信仰に支えられ、毎月21日の「弘法さま」とともに今日にまで続いている。
  一方、大師が入定された高野山では、毎年恒例の行事として行なわれたが、中でも百年目ごとの遠忌(えんき)法会は、大法会として営まれた。

 

◇彼岸会 3月21日/9月23日

  春分と秋分の日を中心に行なわれ、追善儀礼などを中心とした佛教行事。春分と秋分の日を中日として前後3日、7日間にわたる。
  彼岸会は、大同元年(806年)に諸国の国分寺で『金剛般若経』が転読されたのがはじめである。これが皇族や貴族の間でも行なわれるようになったのは平安時代の後期。この頃、不動尊の前で、その呪十万遍と『般若心経』などが読まれ、彼岸の期間に仏に願ったことは成就すると信じられた。また、高陽院の北川御所では、寝殿に大きな仏壇を設置し、そこに釈迦三尊を安置して御懺法(せんぼう)を行なっていた。
  彼岸の日に、「滅罪生善・後生菩提」を祈る懺法を行なう習慣は、鎌倉時代になると武士の社会にも広まった。彼岸の行事が死者の追善供養として一般化したのは、鎌倉時代後期という。江戸時代になると、彼岸の行事は庶民の生活の中に広がり、先祖をまつる祭として定着した。
  寺院では施餓鬼(せがき)などの法要が行なわれ、境内には地獄絵が掲げられて、悪人は死後に地獄に落ちる等の説法をすることも多かった。
  彼岸とは、梵語の「ハラミタ」の訳で、浄土に至ることを意味する。彼岸の期間中、僧侶は盆の棚経と同じように壇家をまわって読経をする。彼岸の中日には、寺で彼岸法要が催され、檀家の人はこれに列席し、説教を聞いて帰る。また彼岸の中日に家に集まり、念佛講などが行なわれる。この頃、四国では遍路への巡礼が、彼岸の期間を通じて盛んに行なわれる。

 

◇法然忌 御忌会(ぎょきえ) 4月19日〜25日

  浄土宗の宗祖法然(ほうねん 1133〜1212)の忌日に行なわれる法要。総本山である知恩院を中心に、浄土宗系の寺院で行なわれる。
  京都の知恩院では、4月19日から25日まで、東京の増上寺は4月13日から15日まで行なう。
  法然は建暦元年(1211)の暮に入洛を許され、京都東山の庵室に入り、翌2年正月25日、80歳で寂した。法然を拝み、その説教を間きたいと望んでいた弟子や信者は、目増しに増えていった。やがて月々の命日にあたる25日、とくに命日の1月25日には知恩講が行なわれるようになった。その後、御廟ばかりでなく、各地で遠忌あるいは月忌が行なわれるようになった。「御忌」という言葉は、天皇や皇后の忌日(きにち)に勤められる法要をさしたが、大永4年(1524)、後柏原(ごかしわばら)天皇が知恩院第25世の超誉存牛(ちょうよそんぎゅう)上人に「大永の御忌鳳詔(ほうしょう)」を出したことから、以来、法然の忌日を「御忌」と呼ぶようになった。

 

◇恐山大祭 7月20日〜24日

  青森県むつ市恐山(おそれざん)の円通寺で行なわれる地蔵講で、イタコと呼ばれる女性霊媒師が、参詣人の依頼を受けて口寄せをすることで有名。この「大祭に地蔵に祈れば死者の苦難を救う」と言われ、この期間には全国から参詣者が訪れる。
  恐山円通寺のある下北半島には、名僧慈覚大師(円仁)が862年、地蔵尊を彫って開山したと伝えられてきたように、古くから地蔵信仰が盛んで、土地の老婆たちが地蔵講を営んでいた。このような地蔵信仰の中心として栄えたのが恐山であり、曹洞宗の円通寺であった。この寺で行なわれる地蔵講の大祭は、江戸時代から近郷の人びとを広く集めたが、やがてその名は東北地方一帯に伝わるようになる。
  明治から大正にかけて、恐山にイタコが集まって口寄せをするようになると、むしろこちらの方が有名となった。現在、恐山というと、イタコの口寄せを連想するが、もともとは円通寺の地蔵講の日であった。7月22日の午前には、僧侶、先達はじめ婆々講、念仏講の信者が同行するかご行列は、「上山式」と呼ばれ、大祭の大切な儀式となっている。

 

◇盂蘭盆 8月12日〜16日

  盂蘭盆(うらぼん)の行事は、かってインドで広く行なわれていた祖先崇拝に起源を持つもので、さかさつりを意味するサンスクリット語の「ウランバナ」の音写である。長い間、子孫から供養されない死者の霊は、悪所に落ちて逆さ吊りの苦しみを受けると信じられていた。このような霊に飲食を与えてその苦しみを救うという信仰が、佛教と習合して盂蘭盆の形となったといわれる。
  死者の苦しみを救うという盂蘭盆会の由来は、目連(もくれん)が餓鬼道に落ちていた母の救済を仏に求めるという説話として、『盂蘭盆経』に説かれる。盆の月になると、寺では本堂をはじめ境内や墓地を掃除し、本堂には施餓鬼棚を作って三界万霊と、この1年間に亡くなった新盆の戒名を位牌に書いて安置する。盆の日には、住職は檀家をまわり、供物の飾られた精霊棚の前で読経し、各家の祖先の霊をまつる。棚経と呼ばれるこの行事が終ると、いくつかの寺が組となって順番に施餓鬼法要を営む。当日には檀信者が米や野菜、お布施を持って寺にまいり、先祖の戒名が書かれた塔婆が供養されるのを、一緒に祈るのである。

 

◇施餓鬼(せがき)

  盆行事の一つとして毎年行なわれる施餓鬼は、棚経が終った頃に檀那寺で催される。寺の本堂に施餓鬼壇を作り、中央に全ての霊をさす「三界万霊」や新しく亡くなった霊の位牌を安置し供物を供える。
  施餓鬼の当日になると、檀家の人たちが寺に参集する。定刻には寺の僧が集まり、施餓鬼法要が行なわれる。読経の経文や儀式の仕方は宗派によって異なるが禅宗では「甘露門(かんろもん)」というお経が読まれる。儀式としては、浄水器の水を盆花などにつけ、位牌や供物に注ぐ。このとき、供養される板塔婆には、「水向供養(みずむけ)」と書かれ、施餓鬼壇の周囲に立てかけられ、導師が浄水器の水をふりかける。法要が終ると、塔婆を墓地に立てて帰るのである。
  施餓鬼は『焔口陀羅尼経(えんくだらにきょう)』というお経を典拠に行われる。そこには次の話が書かれている。ある日釈尊の弟子の阿難(あなん)が一人で座禅をしていると、口のなかに炎を蓄えた餓鬼が現われ、この鬼が阿難に向かって、「お前は3日のうちに死に、餓鬼の世界に生まれる」といった。阿難は恐れて、どうしたらそのような事態からのがれることができるのかと鬼に質問した。すると鬼は、「お前は明日、無数の餓鬼や多くの修行者らに飲食を施し、われわれのために僧や仏に供養せよ。そうすればお前は寿命を延ばすことが出来、われわれもまた餓鬼の苦しみからまぬがれて天上に生まれることができる」といった。
  これを開いた阿難は、仏のところに行って教えを乞うたところ、仏は、一器の食を設け、陀羅尼(ダラニ)で加持すれば、その食は無量の飲食となり、一切の餓鬼や修行者たちは皆食を得て、その苦しみからまぬがれるというのである。阿難尊者はその教えによって餓鬼を救い、自らも天寿を全うした。

 

◇道元・瑩山忌 両祖忌(りょうそき) 9月29日

  道元禅師は、1253年8月28日、54才で、瑩山(けいざん)禅師は、1325年8月15日、58才で亡くなられたが、太陽暦では、いずれも9月29日にあたる。この日を両祖忌と呼び、曹洞宗の寺院では丁重に報恩の法要を営む。曹洞宗の本山には、道元禅師が開いた大本山永平寺(福井県吉田郡永平寺町志比)と、瑩山禅師の開いた大本山總持寺(神奈川県横浜市鶴見区鶴見)がある。西暦1200年生まれの道元禅師は、西暦2000年に生誕800年の勝縁(しょうえん)を迎え、その2年後の2002年には、750回忌の大遠忌奉修(ほうしゅう)の年に当たる。

 

◇日蓮忌 御命講(おめいこう) 10月11日〜13日

  陰暦10月13日、日蓮宗の開祖日蓮の忌日。御影講・御会式・日蓮忌などともいい、日蓮宗各寺院で法会が営まれる。日蓮が没した東京都大田区池上本門寺では、10月11日から13日までの3日間に営なまれる。万燈を押し立てた檀信徒は、団扇太鼓(会式太鼓)をたたき、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら参詣する。また、墓所の山梨県南巨摩郡身延町久遠寺では、11日から14日までの4日間、日蓮誕生地の千葉県安房郡天津小湊町誕生寺では12・13日に修せられる。
  日蓮は、貞応元年(1222)安房(千葉県)に漁師の子として生まれ、清澄山に出家した。やがて台密・念仏の教えに疑問を抱き、日本一の智者になることを願って虚空蔵菩薩に祈願した。比叡山・高野山・南都を歴遊し、『法華経』を仏一代の肝要とし、末法の時代にあって、この経典を説くことこそが仏教興隆・国家安泰になると悟る。建長5年(1253)清澄山に戻り、はじめて「南無妙法蓮華経」の題目を高唱した。ほどなく鎌倉に出て辻説法を行ない、文応元年(1260)『立正安国論』を時の執権北条時頼に献じてその怒りを買い、伊豆に流される。「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」 と遺言し、墓は身延山に建てられている。

 

◇親鸞忌 報恩講 11月21〜28日

  浄土真宗の開祖親鸞(しんらん 1173〜1262)により、この上ない教えを受けた恩に報いるため、親鸞のご苦労をたたえ、その教えを自らのものとし、さらに人びとに広めようとする集い。
  親鸞は晩年には都に戻り、11月28日、数え年90歳で没した。報恩講はその命日の11月28日に行なわれる。浄土真宗本願寺派(西本願寺、お西)では、新暦に換算して1月9〜16日に行なう。これに対して、真宗大谷派(東本願寺、お東)では、毎年11月21日午後から28日午前までの8日間、御影堂で報恩講が勤められる。期間中、特に25日午後5時から〈御伝鈔拝読〉(ごでんしょうはいどく)、28日午前10時から「御満座」の法要で〈坂東曲〉(ばんどうぶし)が勤められ、全国から集った参詣者で満席となる。

 

海外の死者の祭

◇メモリアルデー(Memorial Day) 5月の最終月曜日

  メモリアルデーはアメリカの休日である。この休日には、アメリカ人は、祝典に参加するか、家族で遠出して過ごす。
  メモリアルデーは、戦争で命を失ったアメリカ人男女を追悼する日である。それは南北戦争での死者を記念するために1868年に決められたもので、元来 「勲章の日」として知られていた。
  その後、戦争で死亡した総てのアメリカ人男女を追憶する日となった。

 

◇ハロウィーン 10月31日

  ハロウィーンは何千年もの古い起源を持っている欧米の古い休日の一つで、多くの文化からの影響を受け継いでいる。古代ローマ人のポーモーナの日、ケルト人のサムハインの祭り、キリスト教徒の休日である「諸聖人の祝日」と「万霊祭」である。
  ケルト人は何百年も昔、現在の英国と北フランスに生活していた。彼らは自然を崇拝し、彼らの崇拝する太陽神と一緒に多くの神々を信仰していた。
  神はケルト人の仕事と休養時を定め、農作物を育んだ。そして彼等は11月1日に新年を祝った。ケルト人は冬の間に、太陽神が死者の王と暗闇の王子サムハインによって連れさられ囚人になると信じた。
  新年(10月31日)の前夜に、サムハインはすべての死者を呼び集めた。死者は、悪霊が動物の形をとるように、さまざまな形をとり、多くが猫の形をとった。
  ケルト人の司祭であるドルイド僧たちは、深い樫の森林の生い茂る丘の頂上で会った。僧たちは新しい火を燃やし、農作物と動物を犠牲にささげた。彼らが火の周りを踊ると、太陽の季節が過ぎ去り暗闇の季節が始まるのである。
  朝が来ると、ドルイド僧は家族に燃えさしを与え、それぞれの家庭ではその火を家に持って帰り、新しい調理用の炉火に使うのである。これらの火は家を暖ため、悪魔を避けるのである。
  11月1日の祝祭は、サムハインの名にちなんで名付けられ、太陽神とサムハインの両方が崇められた。この祝祭は3日間続けられた。多くの人々が動物の頭や皮から作った衣装で行進した。この祝祭は最初のハロウィーンになった。
  西暦1世紀にローマ人は英国を侵略した。そのとき彼らは自分たちの祝祭と習慣をもたらした。それは11月1日前後に祝われた。ローマ統治の何百年もの間に、ケルト人の習慣のサムハインの祝祭と、ローマ人のポーモーナ日は混合していった。
  次の影響はキリスト教の普及がある。西暦835年、カトリック教会はすべての聖人に名誉を与えるために11月1日を教会の休日とした。
  この日は「諸聖人の祝日」、あるいは諸聖人( Hallows) と呼ばれた。
  何年も後に教会は11月2日を聖日にした。それはすべての魂の日(万霊祭)と呼ばれ、聖者以外の俗人の死者に名誉を与えたのである。その日は大きいたき火をたき、人々は聖人、天使そして悪魔の格好をして行進した。
  キリスト教の普及によっても、人々は昔からの習慣を忘れられなかった。諸聖人の前夜である10月31日に、人々はサムハインの祝祭とポーモーナの日を祝い続けた。何年もの間に、これらすべての休日の習慣が混ざりあっていった。10月31日の諸聖人の前夜がハロウィーンに変わった。
  我々が今日祝うハロウィーンは、ポーモーナの日のリンゴ、木の実と収穫、サムハインの黒猫の祝祭、魔術、悪魔と死、そして「諸聖人の祝日」と「万霊祭」からの幽霊、骸骨が合体したものである。

 

◇諸聖人の祝日(All Saints' Day) 11月1日

  キリストの教会で、「諸聖人の祝日」は殉教者、あるいは無名の聖者の祝日である。西洋で11月1日に行なわれる。中世に、祭りは「諸聖人の祝日」と呼ばれたので、そこから今日ではハロウィーン(聖者の前夜)と呼ばれるようになった。

 

◇万霊祭(All Souls' Day) 11月2日

  ローマ・カトリック教会で、万霊祭はすべて死者を記念する祭りである。特別な祈祷(きとう)と、浄罪界にいる死者の魂のためにミサが提供される。それは11月2日に「諸聖人の祝日」の翌日に祝われる。
  仏教のお盆のように、死亡した家族のために子の信心の表現として催される。

 

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