1996.05
会館での葬儀

  最近の都市部を中心とした葬儀では、葬儀会館で行われるケースが増えているという。通産省の調べでは、平成6年の互助会関係の葬儀会館は計画中のものを含めて、1,007会場あるという。会館はその利便性が受けて、これからもその利用率が高まるものと思われる。しかし、そこで行われる葬儀式そのものは自宅で行う事柄と同じなので、会館で行うことによって何が異なるのだろうか。今回会館で葬儀を行った者の体験を記して見たい。これは名古屋での記録であるため、進行は通夜、葬儀、火葬、初七日法要に順に行われている。


死亡連絡

  4月のある日、甥の祐一から会社に彼の母の陽子が危篤であるとの電話が入った。私は急いで仕事場を後にして彼の家にかけつけた。陽子の姉と妹もかけつけており、介護用ベッドに横たわった病人は、兄や彼等に看取られ苦しそうに口をあけて息をついていた。かかりつけの医師の話によると、あと4、5日の命とのこと。まだ60才を迎えたばかりで、甥の2人も結婚していない。わたしはその時点で一週間後の葬儀を予期した。
  一旦家に帰り食事をし、本を読んでいると電話がかかった。もう午後10時過ぎており、「今ごろ誰だろう」と思って電話をとると祐一からだった。電話口の向こうで涙声である。彼の母がたった今亡くなったとの知らせであった。私はそのままの格好で車で駆けつけた。あと4、5日だと思っていただけに、それはあまりにも急であった。遺体は静かになったまま横たわっていた。私はそれに白布をかけるのがしのびないので、開いた口にだけに布をかけた。
  部屋にはかかりつけの医師がいた。「死亡診断書は、明日朝にとりに来てください」と言って帰った。祐一は次に次男の春男に連絡した。彼は東京から1時間離れた府中に住んでいた。「もうどちらにしろ死に目にはあえないから、翌朝向こうを出てくれば良い。」しかし、彼はこれから車で帰るがどうかと言ったらしい。夜間車で帰ると、事故でもあったら大変なので、祐一は電車で帰って来いと説得していた。
  しばらくすると春日井の叔父が来た。まず遺体を介護用ベッドから座敷に移すことになった。3人がそれぞれ、毛布の下から頭、腰、脚部をささえて座敷へと移した。もちろん北枕に安置した。葬儀の準備はどうしても年長者の経験が生かされる。
  祐一は父に、「これまで一生懸命介護したのだから、自分を責めてはだめだよ」と何度も言葉をかけていた。兄にとって癌の手術をしてからほぼ1年、その間食事の世話から病院の付き添いまで大変な1年であった。
  春日井の叔父は、「女親が先になくなると、何につけても大変だ」と言った。確かにお茶一つ出すのにも、女性のいない家庭では何かと気がまわらない。

 

枕経

  まだ葬儀社にも寺院にも連絡がしていなかった。とりあえず私は、旦那寺に死亡通知と葬儀の依頼の電話をかけた。寺院の返事は、明後日は友引にあたるので、葬儀はその次の日ということになった。また、
  「これから枕経をあげに行くので、生花と線香とローソクを用意してほしい」といわれた。
  この家には仏壇はおろか線香もないので、私は家まで経机と線香、ローソクを取りに自宅に帰った。ローソクは短いものしか見つからなかった。これではすぐに消えてしまい長い夜を過ごすには向いていないが、これで間にあわせた。
  今度は鈴(りん)がないというので、もう一度家まで取りにいった。私が鈴をもって戻ってくると、すでに僧侶は来ていた。早速枕経が始まった。読経のあと、僧侶は故人の生年月日と氏名を紙に記して帰っていった。氏名をもとに戒名をつけるのである。
  「お寺に支払う金額はいくらだろう」と兄は私にたずねた。私は自分の経験を話したが、宗派が異なるので実際に聞いてみたらよいと答えた。そして私は寺に電話をして明日相談に伺うことを述べ、時間の約束をした。ついでに「明日の仮通夜には何をしたらよいか」を尋ねると、家族がそろって故人を見守るのみでよいと言われた。
  次に葬儀社に電話を入れた。こちらの名前と住所、遺体のある場所を知らせると、担当者が早朝に訪問するとのことであった。時間も遅くなったので、私はとりあえず、自宅に戻った。

 

葬儀社との打ち合わせ

  朝食をすませてから兄の家を尋ねると、すでに葬儀社と打ち合わせがはじまっていた。枕飾りは葬儀社が用意した新しいものに変わっていた。
  葬儀の会場は斎場で行うことになったらしい。理由の一つは部屋のタンスなどを、式のじゃまにならないように移動させなければならず、会葬者が車で来た場合には駐車場がないことがあった。会館のパンフレットには使用料金や設備内容が紹介されていた。その時担当者からおおまかに、会場を使用する際の説明を受けた。それによると、親族の控え室にはお茶を沸かすための炊事設備が用意されており、食べ物を持ち込むことも可能である。また食事は電話で近所の店から出前することも出来る。また葬儀式と通夜の会場は同じで、通夜が終わり翌日の葬儀が始まるまでの間は、遺族控え室の仮祭壇に遺影と棺を運び、そこで遺体の番をすることも可能という。
  建物は5階建てで、われわれはその3階を使うことになった。式場の広さは100人から300人用で、料金は100人用の部屋と2、3万円程度しか違わないから、大きい会場に決定した。
  しかし私はそんなに多くの会葬者は来ないのだから、小さい会場の方が充実した空間ではなかったのかと思っていた。しかし葬儀社の担当者の説明によると、「結婚式はにぎやかな方がめでたいが、葬式の場合は人が少なくてもおかしくない」といった。私はそんなものかなと、感心して聞いていた。
  次に通夜返しと葬儀当日の会葬御礼の品と数を決定しなければならない。それぞれ200を頼んだが、使わなかった分は返品してもよいということであった。また会葬御礼品の分については、葬儀が終わってからも弔問客が訪れることが予想されるので、その分を予備に購入したほうがよいというアドバイスがあった。

 

喪主の決定

  喪主は私の兄の長男である祐一に決定していた。私は故人の夫である兄がなるものと思っていたが、意外であった。しかし、故人の息子が喪主になることは決しておかしなことではなかった。兄はすでに定年から2年という歳月が経っていた。本来なら兄が喪主となり、会社関係者が葬儀の手伝いなどをすることもあるのだろうが、今回兄は会社には知らせなかった。会社に連絡したら迷惑がかかると思っていたのか、定年後、いまさら会社に負担をかけたくなかったのかもしれない。しかし長老にあたる春日井の叔父は、やはり会社に知らせるべきではなかろうかといった。しかし、それは実行されなかった。
  兄は寺院に費用について相談に行った。どうやら思ったよりも高かったようである。そこで脇僧を減らすことにした。脇僧一人あたり5万円ということで、3人の予定を一人にした。しかし、これでは10万円しか違わない。こまごましたものを加算していくと意外と合計額が膨れ上るのである。

 

湯かんと納棺

  その日の午前10時頃、湯かんが行われた。葬儀社から連絡を受けた専門の業者から、女性が2人派遣された。家族・親族の見守るなかを、彼女たちは大変ていねいに作業をし、家族もその作業の一部を手伝った。家族が母または妻のために何かをしてやりたいという気持ちをすこしでも満足させたのである。湯かんのあとに死化粧を施し、女性らしいプリント柄の棺に納棺した。あとは小さい祭壇に遺影写真が飾られた。

 

第2日目の夜

  葬儀の際に困ることの一つは、食事を用意する時に、あらかじめ何人くらい集まるかが予定できないことである。今回のように、葬儀の日が友引と重なると、死亡の日から葬儀の日までの4日間、朝、昼、晩と食事を出すとなると12食、夜食などが加わると16食。それに人数分をかけた分を用意しなければならない。仮通夜の夜は、近くのすし屋で助六を10人分用意し、翌朝の食事はパンということになった。こんな場合、24時間空いている近くのコンビニは大変に便利な存在である。

 

仮通夜

  仮通夜というのは、身内の者が集まって行う通夜で、今回は読経も行われなかった。この夜には死を聞いて駆けつけた2、3の弔問客があった。あらかじめ会葬者名簿、香典帳控え、供物控えに記すための説明を担当者から受けていたので、それに従って記入した。説明によると、会葬者名簿には、まず身内から氏名と住所、電話番号を記入してもらうということであった。香典返しをする場合には電話番号の記入が大変に役立つのである。次からの客が前の記入方法を参考にするので、親族にも電話番号を書いてもらった。
  その夜は私を含め5人が徹夜をしてローソクの火を守ることになった。特に何を話すこともなく、私は兄弟たちの話しを聞いていた。コンビニの経営の話から始まって、日本の酒メーカーの悪口となった。皆は眠そうな様子も見せずにいたので、私は一人毛布を腰にかけて横になっていた。さすがに朝の5時になると、皆が横になって眠りはじめた。この頃誰かに番を代わってもらえるとありがたいのだが、そんなわけにはいかない。私は7時になるまで待って、それから家に戻って食事をした。この日は幸い日曜であったので、それから昼まで眠ろうと布団に横になった。

 

遺体搬送

  昼過ぎに兄の家に行くと、親戚を含め沢山の人が集まっていた。3時に遺体を会館に運ぶために、係員がやってきた。彼はまず祭壇のローソクの火を消し、今度は棺を運び出す準備をした。寝台車が到着したので、親族が棺の前後を持って、玄関から運び出し、寝台車に棺を納めた。車の扉を閉め、喪主が助手席に乗り会館に向けて出発した。私たちはその車を追っかけるようにして、それぞれ自家用車に乗って出発した。

 

会館到着

  車で10分ほどで会館に到着した。別々に到着した人々が3階に集まると、係員から設備の案内があった。まず式場、次に各部屋の案内。遺族控室(ここで通夜の仮眠が出来、布団も借りることが出来る)、炊事場、僧侶控室、受付そして会葬者休憩所である。今回はこの会葬者休憩所が初七日法要と精進落しの会場になった。

 

会場

  この会館の駐車場は立体駐車場で、車を駐車すると係員がカードをわたしてくれた。このカードをパネルに差し込むと、機械が動きはじめて、駐車場の扉が開き、自分の乗ってきた車が出せるようになる。したがって夜間係員が帰ったあとでも、自分でこのカードを差し込めば、車の出入りが可能なのである。
  もう一つ便利な点は、夜間になると会館の扉は閉まるが、通用門の所にテレビカメラが取り付けられており、外から関係者がブザーを押すと、中の家族が人物を確認し、ボタンを押してその人を中に入れることが出来る点である。これならば、関係者が真夜中に尋ねてきても、保安上の心配なく出入りが出来る。

 

通夜準備

  自宅葬の場合には、近所の人が通夜・会葬にやってくるが、今回のように自宅から会場まで車で10分ほど離れている場合には、わざわざバスなどで出かけなければならない。そこでこの葬儀社は通夜・葬儀の30分前にマイクロバスを出して、自宅の前から会葬者を送迎するサービスをしてくれた。式が終わったら、同じように自宅まで送り届けるのである。ここでもまた心配があった。つまり兄の家族はこれまであまり近所付き合いがなかったので、果たしてこのバスに乗ってくれる人がいるかどうかである。結局この30人乗りのバスには、10人程度の人が乗ったようであった。

 

通夜

  通夜は午後7時から。受付の担当の者は、筆記用具や通夜御礼品の用意をして弔問客が訪れるのを待った。参列者は何人訪れるのかはさっぱり分からなかった。式場の席は300席が並べられるのであるが、とりあえず100席ほど並べあとは後の壁面にそって積み上げられた状態になっている。通夜が始まる前に焼香のリハーサルが行われた。祭壇の両側に会葬者に向かって遺族席が設けられ、席順が決定された。その席順に従って焼香が行われるのである。自宅での葬儀では考えられないことである。
  焼香を行う人は、席から立つとまず僧侶、次に会葬者に向かって一礼する。次に焼香台の前に立ち、祭壇に向かって合掌したあと、焼香を2回する。そして次に会葬者、僧侶に一礼したあと着席。
  僧侶が式場に到着。準備が万端整い、会館の係員による案内及び司会により、通夜は7時より始められた。読経に続き親族、会葬者による焼香が行われた。会葬者は70人程で空席はあったが、一安心であった。
  通夜終了のあと、会葬者に飲食を接待するための場所はあったが、特に茶菓子の用意をしておらず、参列された方々は、式が終わるとそのまま帰られた。式のあと、2人程遅れて焼香された。そのあと棺を遺族控室に運び、そこで死者をお守りする最後の夜を過ごすのである。ここには小さな祭壇が用意されており、そこにローソクと線香の火を消さないように番をするのである。この小さな祭壇には、線香の煙を吸い取る装置が取り付けられており、それによって締め切られた部屋が煙で充満するのを防止しているのである。

 

葬儀

  葬儀時間は午後12時からであるので、親族も午前はゆっくりすることが出来た。私は自宅で食事をすませ、会館に到着したのは10時頃であった。遺族控え室には仮祭壇と、その前に棺が安置されたままで、ローソクと線香がともされていた。最近は技術の進歩により、ローソクは1本で7時間ほど持ち、線香も50分ほど持つので大変楽になった。しばらくすると出立ちの用意が出来たので、食事をすることになった。出立ちは葬列にあたって皆で一緒に食事をする習慣の名残りであるが、忙しくて食事の準備を出来ないわれわれには、それが朝昼兼用の食事となる。食事のメニューはまたもや助六である。これは生臭ものが入っておらず、腐る心配がないからこういう場合に必ず利用される。
  葬儀の時に決めなければならないことの一つに、焼香順位がある。故人との繋がりの濃い順であるというが、どのような繋がりがあるかは、両方の家の家族構成をよく知っていないとわからない。この点に関しては両家がそれぞれ話し合ってなんとか無事決定した。葬儀は1時から始まった。予め焼香の練習が行われた。今度は焼香のあと、着席するのでなく、喪主と親族の何人かが、会葬者の方に向かって立ち、焼香する会葬者に会釈をするリハーサルが行われた。
  僧侶が到着した。係員のアナウンスにより、親族が所定の位置に着いた。読経、引導のあと、弔電披露が行われ、そして親族焼香、会葬者焼香が続いた。
  葬儀のあとのクライマックスは棺の蓋をあけ、故人との最後の別れをする場面である。ここでは親族の一人一人が生花を遺体のまわりに置いて、別れを告げるのである。女性の多くが涙を流し、男の人も思わず涙をみせる。そのあと、棺の蓋がかぶせられる。蓋をしたあと、本来ならば釘打ちの儀式が行われるのだが、ここでは集まった親族が一緒に蓋を持ちあげ、一緒に蓋を閉めるという儀式をおこなった。蓋が閉ざされると、棺が会場の中央に運ばれ、その後に親族が一列に並び、喪主が会葬者にお礼の言葉を述べる場面となる。
  喪主はこの台詞を覚えるのに大変苦労することがあるが、彼の場合、位牌の裏に原稿を張り付け、それを少し高く持ち上げるようにして読んだ。このあと、棺は車のついた台に乗せられてエレベーターに向かい、そこから1階に降ろされ、待っていた霊柩車に乗せられた。

 

出棺

  私は最後のハイヤーの座席に座った。会葬者の合掌に送られ、霊柩車は火葬場に向かって出発した。交差点で最後の車が遅れたりすると、必ず霊柩車は待っていてくれる。よくしたものであると思って運転手に尋ねると、最終車はヘッドライトを点灯させて、最終車であることを知らせているそうである。
  火葬場
  火葬場まで霊柩車とハイヤーで行くが、この時に困ったことは、行きと帰りのハイヤーの数が異なることである。単純には、行きと帰りの人数は同じであるが、喪主は行きに霊柩車に乗り、帰りはそうではない。それから火葬場まで見送りすぐに戻る人と、火葬場に残って骨あげする人がいるという違いである。それから僧侶が火葬場に参加する場合、行きは1号車に乗るが、帰りは読経してすぐに帰ってくる。従って行きの台数はすぐに決まったが、帰りの台数が決まらなかった。しかし問題はなかった。それは、帰りは向こうに何台もタクシーが待機しているため、あらかじめ決めておく必要はなかったのである。
  今回は僧侶が急用ということで、火葬場にはついて来ないことになった。僧侶に聞いてみると、最近では火葬場に一緒に出かけることは少なくなっているという。火葬場から骨上げして戻ってくる時間を見越し、初七日法要は4時からの開始である。
  車が火葬場に着くと、そこには大勢の人々がごった返していた。霊柩車から棺が降ろされると、私たちは棺のあとを追って建物のなかに入った。入り口で火のついた線香がわたされ、釜の前に棺が置かれると、棺の蓋の上に各自が線香を供えた。皆で合掌したあと、棺は釜の中に押し込まれ、釜のふたが閉ざされた。

 

初七日法要

  私は骨あげに立ち合わずすぐに火葬場から帰ってくると、式場の扉が閉ざされ、親族控室の荷物は会葬者接待室に移されていた。この部屋に法事祭壇が置かれ、これから初七日法要と精進落しが行なわれるのである。法事祭壇はすっかり用意がなされ、生花も豪華に飾られていた。この生花は式のあと、自宅に持って帰る分である。
  骨あげ組が会館に戻る前に僧侶が到着した。火葬場の方が予定より遅れているらしい。しかし時間丁度に彼等も到着した。同じく僧侶が控え室から現われ、読経に入った。読経の内容は、火葬場での勤経からはじめているようである。本来火葬場で行うべきお経を、こちらで読んでいることが分かった。
  法要が終わって精進落しとなった。食事が一つ足らなかった。これは用事で出席できなかった人が急に参加することになったからである。これは困った。しかし、無事に食事は終わった。最後の食事は栓を抜いたままのビールが何本も残るという、結果的にはあわただしいものになった。あわただしいがゆえに早く切り上げることが出来たのかもしれない。最後に生花などの荷物を車に運ぶ仕事が残っている。荷物が車に乗るかどうかを心配したが、それも案ずるも生むが易しで、無事納めることができた。
  葬儀が終わった翌日、兄の家を尋ねてみると、親子3人が家にいて、次男が故人に来た年賀状に基づいて一軒一軒電話をかけていた。電話を聞いていると、どうやら死亡通知をしているらしい。「連絡が遅れてもうしわけありません。」と断わっているのだが、今さら電話しても葬儀は終わってしまっているのである。こんな時には年賀欠礼のお知らせの時に「死」を知らせることも出来るのであるが、それでは余りにも遅いと考えたのかも知れない。何十軒も連絡をしたようである。これも大変な作業であると感じた。

 

会館と自宅葬の違い

  会館はホテルと一緒で、式典から会食、寝泊りまですべてを賄うことが出来る。しかし、あくまで公の場所という意味では自宅での葬儀以上に緊張感があり、すべての準備が金で解決するというビジネスライクな点はいたしかたないであろう。
  アメリカの斎場は「家庭の居間から葬儀を出す」という発想から、斎場そのものの設計はホテルというより、家庭の雰囲気を生かしたものが多い。それに対し日本の葬儀会館はホテルや貸ホールに近く、家庭的でも宗教的でもない。エレベーター、立体駐車場、照明、演出設備を備えるとなると、やはり家庭的とはいかないのであろう。

 

会館でのメリットとデメリット

  八木澤壮一教授が朝日新聞(93年9月14日)に「斎場評価表」の20項目がある。
 
  1. 会葬に行きやすい位置にあるか。
  2. 車や自転車の利用が便利か。
  3. 火葬場との位置関係がよいか。
  4. 一連の葬儀行為が行えるか。
  5. 四季に左右されず行えるか。
  6. 雨風などの悪天候に備えがあるのか。
  7. 場内で戸惑うことはないか。
  8. 会葬者の多少や要望に応じられるか。
  9. 遺体と遺族が大切に扱われているか。
  10. 外部との連絡が容易か。

  以下、更衣室や貸衣装室があるか。ラウンジや庭園があるか。スロープの用意。専用出入口、控え室の有無。放送や照明設備の使い勝手。物品の移動や保管。焼香の排気設備。告別の感動。風格。予算、進行、飾り付けの相談などが述べられている。
  これを見ると、主に遺族、会葬者の両者にとって利便性が主体となっており、告別の感動が1項目設けられている。確かに利便性が確保されると、次に風格などの見ための要素が求められ、それがクリアすると次に感動などの精神性が要求されるようになる。同じ建物で、同じ様な式次第で行われがちな葬儀であるため、会葬者にとって、感動は薄くなる場合があるだろう。そうした場合、故人の個性をより強く表現する演出が必要になってくると考えられる。

 

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