1995.06
棺の物語

東西の棺

  人が死ぬと誰もが棺のお世話になる。この棺には古今東西、材質とその形態がさまざまあるが、遺体処置の方法や死後観によって異なっている。ここでは、東西の棺の形とその背景となる考えや、これからの棺をみていきたいと思う。

 

棺の種類

  遺体処置は、埋葬と火葬が最も普及している。そのなかで、埋葬文化圏では棺を、火葬文化圏では、焼骨を納める骨壷が使用された。現在の日本のように火葬が普及し、埋葬しないにもかかわらず、棺が不可欠な場合もある。
  同じ埋葬文化圏でも、納棺の姿勢により棺の形態が異り、基本的には伸展葬と屈葬に分けられる。伸展葬は仰向けに納める方式がほとんどで、横長の棺が使用される。それに対し、屈葬は身体を丸めて納めるもので、棺は桶の形が多い。
  材質には木製と石製がある。木製では板を組み合わせたものと、丸木の中をくり抜いて作られたものがある。現在の木製の棺は組み合わせのものが多いが、日本の古墳時代には丸太をくり抜いたものがあり、中国四川省の船型棺もくり抜いて作られている。
  石製のものは古代エジプトやギリシャ・ローマに多く見られたが、これはあらかじめ埋葬用として墓室内に設けられ、そこに遺体を安置したものである。
  陶製の棺はエトルリアの陶棺、中国の瓦棺などが有名である。
  金属製の棺は現在のアメリカで最も人気のある棺の一つで、その耐久性と密封性が人気を呼び、故ケネディ大統領も金属製の棺に納められた。

 

東洋の棺

●中国

  中国の棺は、遺体を長く保存することを目的としたため、棺は大変頑丈に作られた。殷時代中期には木槨墓がみられた。槨は棺を外部から何重にも保護するものである。さてこの木槨墓は、長方形のたて穴の底に木槨を築き、遺骸の他、銅器や玉器を副葬した。戦国時代になると礼楽制度によって葬制が整備され、身分による棺槨の数が決められた。「国君は3重、外の棺は厚さ8寸、中間の棺は厚さ6寸、中央は4寸。上大夫は2重で8寸と6寸、下大夫は2重で6寸と4寸」(『礼儀』喪大記編)。『礼儀』檀弓編上に、「天子の棺は4重とする。もっとも中央の棺は、牛の革を張り合わせて覆い、厚さは3寸。次は白楊の棺、次に梓の棺が2重とし、みな周囲を皮や木で覆う」とある。
  梓で作った棺は、松や柏にまさるという説があり、天子の棺のことを「梓宮」と呼んでいた時代がある。もっとも松と柏も棺の材料として大変もてはやされた。それは丈夫で樹脂が多く、永続性に優れていることと、松と柏に対する信仰から、そこに死者を安置しておくと生命が蘇るかもしれないという願望もあった。
  棺に代わって遺骸を納めるものに玉衣がある。これは四角に削った宝石を人の型に縫い合わせて、遺体の表面を覆ったものである。死体の防腐に玉や金を用いたのは、これらの材質が、不老不死の仙薬として用いる錬金術信仰と係わりがあると思われる。
  棺には諸天を表す動物が描かれた。『後漢書』によると、天子の棺には「日・月・鳥・亀・龍・虎を描くのが常である」とある。古代中国では、これらの動物は天界の4つの方角を指し示した。東は青龍、南は朱鳥、西は白虎、北は玄亀である。中国では、最近まで棺台の帳と上部及び両側に龍と虎の図の刺繍が見られた。(デ・ホロート『中国宗教制度』)
  棺の底に板を置くことがあった。この板には大熊座の星のように並んだ穴を7つあけたり、あるいは円を7つあけることもあった。これは「七星板」とよび、老人の埋葬に必ず用いた。これは四季の運行を司る北斗七星信仰から来ている。また中国の道家の説では、「人間は生まれてから七七日の間の各7に一魄(肉体を支配するのが魄で、精神を支配するのが魂といわれ、死後魄は地に魂は天に帰るという)が出来、生きている間は七魄を具えているが、死ぬと7日ごとに一魄が落ち、七七日で七魄が全部なくなる」と説き、七星板の穴は、七魄の出口という説もある。((平凡社版『清俗紀聞』注より)


●納棺に2本の釘が用いられる

  デ・ホロートの『中国宗教制度』のなかで、厦門(あもん)の納棺について、興味深い記述がある。「用いられる釘は2本で、棺の板が厚い場合には太い鉄釘が2本用いられる。棺の長い側の中央に各1本づつ打つ。大抵それぞれの釘に赤い布が縛りつけられ、魔除けとしている。棺に釘を打ちつけながら、次の言葉を繰り返す。「息子や孫に男子が生まれるように」。最後に棺に長い側面に各2カ所づつ、継ぎ目の真上に木塊4個を差し入れて蓋を密着させるのである。


●生前に用意する棺

  中国では、余裕のある人は、生前に葬衣を用意しておく習慣があり、子供たちがその親に葬衣を贈ることがある。同じように50歳ないし60歳以上の人は、あらかじめ自分の棺を準備しておくべきであるといわれる。あるいは棺材を用意することがあり、これを寿板という。長崎の崇福寺でも、「寿」及び「天寿地久、備而不用」と書いた紙をはった棺があるという。(平凡社版『清俗紀聞』注より)生前に用意される墓を寿陵と呼ぶのに通じる考え方である。

 

日本の棺

  古墳時代の棺には木棺、箱式棺、船形棺、長持形石棺、家形石棺など、さまざまな材質や形があった。
  宗教民俗学者の五来重は「日本人の本来の棺は桶棺か座棺である」(『葬と供養』五来重 297頁)と述べている。そして元来、桶棺や座棺は屈葬死体を納めるものであるのに対して、寝棺は伸展葬死体を納めるもので、大陸の支配者の寝棺が日本の支配者に模倣され、戦後日本人の「中流意識」によって寝棺が一般化したと解釈している。
  京都市の「火葬における座棺と寝棺の比率」によると、昭和21年、72%が座棺で火葬されていたが、昭和27年には54.9%に減少している。鯖田豊二は『火葬の文化』で、座棺のときには燒骨はひとかたまりのままだったが、寝棺になってから、現在のような竹の箸で燒骨を拾っていく風習が生まれたといっている。


●七星板

  江戸時代中期、1762年の『大江俊章公卒去の記』の葬儀の記録に「7日、午後11時、内密に入棺。棺は実に壷である。平日の好みによって各のごとし。底に七星板あり。穴七つあり。板の下に灰を入れ、蓋は松。厚さ1寸3分。内外にさん2ケ所あり。落し蓋にしてさんで落ちるようにする。チャン(瀝青)にて塗る。厚さ5分ばかり。さて箱に納める。松の板、粗いものなり。これに前字を書く。大(三)字。釘を打ち、左縄をもって紙をまく。十文字によくいわえ、横縄を入れ、あぶなくないようにし、白布の覆いをかける」とある。このなかの前字とは、五来重によると、棺の頭の方に書く梵字という。「三字」?とあるのは、キリーク・サ・サクの阿弥陀三尊の種字と思われる。(『葬と供養』 312頁)
  今の真言宗の場合には、棺の前にア字、棺の底にバン字を、蓋にアーンク、東西南北の四方にア、アー、アン、アクを書いて胎蔵界の五仏とする。(同書)こうした梵字は、死者を成仏させるための秘密文字ということが出来る。
  壷を棺と呼ぶのもおかしなものであるが、『和漢習合葬祭紀略』に「棺は板をもって臥棺に製し、瀝青(れきせい)をそそぎ、灰隔などを作るべきであるが、力がなくて用意できない場合には、これまでは甕(かめ)を用いる。甕も薬をかけたもので、石のふたを用いるべきである。それさえ出来ない場合には、素焼きの甕に、松か檜の厚板でふたをつくり、葬ったあと、ふたの上に檜の方木をならべておく。こうしたものは座棺という。」とあるから甕で間に合わせたものと思われる。中に出てくる灰隔とは、遺体保存のために使用された炭末石灰を隔てることである。


●神道葬

  神道の葬儀といっても、そこには儒教や道教の影響が多分にみられる。水戸藩の葬儀の在り方を伝えた『葬祭儀略』のなかの棺について次のように説明がある。
「板は、赤みの杉、または檜を用いるべし。板は厚いものを用いる。棺は人の大小を計り、わずかに身を入れるほどに作るものなり。人の大小によって棺の大小あるべし。右の尺寸のつもりをもって、その人の大小を計って作るべし。柩衣は白い布で、棺の格好に縫って上へうち着せるものなり。棺は葬具の最も肝要なものなり、心を尽くしてよく作るべし。」
  灰隔板とは文字通り、灰を隔てる板のことである。同書に、「灰隔板は、壙の中の四方に、板にて四角に作る。前後左右、棺より5寸づつ広くすべし。蓋ありて底なし。底は炭末石灰を厚さ2寸余りも敷き、その上に石灰細かい砂黄土を混ぜたものを敷いて、固くつき固める。灰隔板の高さは、棺を入れてその上5寸ほどにすべし。棺を入れて後、蓋をして、釘を打って固める」とある。

 

西洋の棺

●古代エジプト

  古代エジプトでは、その長い歴史のなかで棺の形も様々の変遷をとげている。棺は全体、特にふたが天空の女神ヌトと同一視された。中国でもふたを天と呼んだように、天とは死者の魂が帰る場所と考えられたのである。
  初期王朝時代(紀元前2750〜2213)は石棺と木棺の両方があった。初期王朝時代の木製棺は、屈葬と伸展葬の二つがあったが、のちに伸展葬が標準となっていく。その棺は大型の木材ではなく、小さな木片をつなぎ合わせて作られた。そしてそれは当時彼らが住んでいた葦の茎で作った家を模して作られた。彼らは死後も生きている時と同じような住居に住むと考えていたのである。そしてこの棺には美しく彩色された。(図右)。
  中王朝(紀元前2025〜1627)の棺はシンプルな外形で、そこに死者の魂が出入りできる門が描かれたり、また呪文が描かれたりした。(図左)
  図に記されている矢印は、呪文が書かれた方向を示している。棺の頭に当たる部分には二つの神聖眼が描かれた。遺体は左側面を下にした姿勢で置かれたので、棺の彩色眼は死者の顔の前に来るのである。この眼はホルス神の目を表し、死者に守護を与えるばかりでなく、死者が棺から出ていくことを可能にした。棺に記された銘文は棺の頭部からはじまり下部まで続いた。棺に呪文を記す風習は、死後楽園に生まれることを願ったものである。(J・スペンサー『死の考古学』)
  エジプトで最も有名な棺は、何といってもツタンカーメン王の人形棺である。1926年、王家の谷で発見された時には世界中の話題となった。この人形棺に描かれた像は、冥界の王オシリスを表している。この人形棺の中に、第2の人形棺がぴったりとはめこまれ、さらにそのなかに第3の人形棺があった。第3の棺は厚さ2.5センチ、高さ1.83メートル、重さ110.4キロの純金で作られ、そこにラピス・ラズリなどの宝石が嵌め込まれている。このように人形棺は3重になっており、その中に黄金のマスクを被ったツタンカーメンのミイラが眠っていた。この棺の裏には「死者の書」から取られた呪文が記されている。
  ローマ時代に入って、台板の部分とそれを覆うふたの部分からなる棺が登場した。棺の表面には太陽神ラアの船などが描かれ、ふたの内側に死者が仰向けに横たわって天井を見ている位置に、天神ヌトとそのまわりに12の星座が描かれている。


●ギリシャ・ローマ時代

  ギリシャでは、墓地は市の門に通じる街道の両側に作られた。アテネの前期ヘラディック文化様式の墓地では、地下に石槨を作り、遺体を伸展させて埋葬した。また中部イタリアのエトルリア人は独特の墳墓を作った。陶棺の蓋に死者の丸彫り像や、ときには夫婦の像を作った。(写真参考)
  ローマ時代には石棺を高浮彫りで飾ることが流行した。石棺には、死者の生前の姿や神の姿が彫られた。神話には、死者の魂を救うオルフェウスの神が石棺の表面に彫刻されたりした。


●初期キリスト教時代

  石棺の装飾はローマ時代の石棺の装飾様式が基礎となったが、棺上に横たわる丸彫は姿を消した。その代りに、キリストを中心に左右に使徒を並べたり、中央に死者の肖像を入れ、その周りに聖書の場面を描いたものが登場した。こうした死者の肖像を入れた墓は、5世紀ころから見られなくなった。また石に刻まれた碑文は7世紀頃まで続いたが、それ以後は見られなくなった。


●中世

  中世になると石棺彫刻は衰え、死者は簡単な石棺に入れられて、教会の内部に埋葬されるようになった。大多数の人々にとって、18世紀末に至るまで墓に個性を主張することはなく、アリエスが言っているように、「住民の大部分にとって、埋葬の場所を目に見えるしるしで明示する願望は、感じられなかった」(アリエス『死の文化史』2章)のである。


●近世から現代にかけての棺

  英語で棺のことをコフィン(coffin)あるいはキャスケット(casket)と言う。コフィンは俗に棺の両肩の部分が最も巾広になっており、足先に向かって細くなっているデザインのものをいい、キャスケットは宝石箱という名の通り、長方体の形のものである。このキャスケット様式は1870年代にアメリカで考えられたもので、その後、急速に定着した。長い歴史のあるイギリスでは、葬儀雑誌の広告を見ていても、コフィン形の棺がいまだ多く掲載されているが、アメリカではキャスケット型がほとんどである。
  『イギリス人の死に方』によると、1450年から1900年までの間に少なくとも14の棺の型が生まれたという。
  人間型の棺はもっぱら地下墓地に安置する場合に限られていた。これはイギリスでは15世紀に流行し、ある地域では17世紀後半まで見られた。その形が用いられた理由の一つに、衛生学的に体液が外部に漏れないような防水処置をほどこし、外側をしっかりと縫い止められることが出来たからである。この例がウエストミンスター寺院の墓地にある、ヘンリー7世(1509年歿)などの棺である。
  棺の表面にベルベットが用いられたのは、19世紀初頭である。初めは黒色か朱色が主であったが、じきに紺色、深緑、青緑が用いられ、後者は特に子供用の棺に使用された。19世紀後半に棺のデザインが変化した。ワックス及びフランス風に磨かれた木材の材質を生かした棺が登場したのである。


●アメリカの棺

  植民地時代から代々アメリカの棺は木製で、時代と共に改良が加えられていったが、地位によってその材質が異なった。金持ちはエルムかオーク材が、貧者には松の木が用いられた。19世紀中頃から耐久性のある金属製の棺が人気が出てきた。その理由の一つに、この時期に医学が発達し、解剖用の遺体の盗掘から遺体を守る頑丈な棺が必要とされたという物騒な話もある。
  棺製造は、もともと大工、木工業者、家具職人の手で作られていたが、都市人口の増大とともに18世紀中頃には棺製造が専門職として登場し、棺店が看板をあげるようになった。また生きたまま埋葬されるという恐れから、棺のなかに鈴や笛などの器具を取付けた棺が登場した。こうした機能をもつ棺は、エンバーミングが発達する19世紀の終わりには見られなくなった。


●棺の値段

  欧米では葬儀費用のうち、棺の値段がもっとも大きな比重を占める。アメリカでは通夜の代わりに葬儀場の一室に遺体が安置され、ビューイングという最後の別れが行なわれる。弔問に訪れた人々が、棺の中に横たわった故人と最後の別れを告げるのである。その準備として、遺族は葬儀場の地下などに設けられているショールームで棺を撰択することになる。そして棺が決まったら、エンバーミングされた遺体が、棺に納められるのである。
  棺の種類はさまざまで、コストは200ドルから2万ドルまで、一番安価のものは布張りの合板製。次は木製で銅やブロンズの覆いのあるもの。金属製の棺はおよそ1,000ドルから数千ドルまで用意されており、遺体の下に敷かれたマットレスは弾力性のある、大変に見栄えのよい材質が使われている。このクラスのものになると、大抵は密閉製に優れ、それを売り物にしている。さらに高級のものは1万ドル以上のものがある。
  現在の顧客の特徴は、棺の色やデザインを指定する人が多いという。棺の内装の色は男女によって好みが異なり、男性は青か灰色かかった白でオークの葉が飾られ、女性はピンクか白が好まれ、そこに生花が飾られる。また金属製の棺や堅い木材で作られた棺は男性に、女性には柔らかい木材で作られた棺が好まれるという。
  1993年のFFDAの調べによると、1992年の葬儀費用の平均は、3,663ドル(1ドル83円換算で30万4000円)。うち棺の平均金額が、627.7ドル(約5万2000円)。93年では3,819ドル(31万6900円)、棺の平均金額は652.1ドル(約5万4000円)。10年前の比較でみると、1983年の葬儀費用が2,367ドル(内棺費用は、408ドル)、10年間で葬儀費用、棺費用ともに約1.6倍になっていることがわかる。


●現在から未来へ

  現在、欧米では火葬が増大してきているが、それに伴い環境問題が起きている。つまり棺を火葬にすることに対して、資源保護や大気汚染防止の意味から、棺の在り方が見直されてきているのである。
  イギリスではすでに、リサイクル可能な材質による棺が販売されている。カーウッド葬祭用品株式会社では、資源保護を目的としたコンパクタ棺を販売している。これはリサイクルした素材で作られており、運搬や保管にも便利であるが、一見ダンボールの箱のように見えるため、彫りのある伝統的な棺に見慣れた人には、物足りなさを感じるだろう。


●棺による火葬が減少

  1994年8月、北米火葬協会では、1,200の火葬場に対して、火葬における棺の使用状況について調査を行なった。その結果、約18万2000件の火葬に対し、75.63%が代用ケースで火葬されたことがわかった。続いて「布張棺での火葬」8.29%、「木製棺での火葬」7.51%、「遺体を包装しての火葬」4.43%、「ケースなしでの火葬」1.85%、「遺体バッグでの火葬」1.58%、「金属棺での火葬」0.71%の順である。(「北米火葬業者」94.4号)
  このように、普通の棺で火葬するケースが16%しかない。アメリカでは日本の様に、棺を焼却炉に入れる際に遺族が立ち会わないので、火葬にする棺が簡素になっていることが窺える。


●自家製棺

  長さ

高さ

大型 198.12

66.04

40.64
中型

167.64

53.34 34.29
小型 167.64 53.34 34.29
子供 119.38 40.64 25.40

  アメリカでは、葬儀なしに火葬を行なうことが珍しくない。大変合理的な面を持つお国柄だけに、自分自身で棺を制作するための、青写真まで販売されている。表は棺の基本サイズである。

 

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