1994.03 |
自分のライフワークをきっちり決めてそれをなし遂げて亡くなるという幸運の人は限られているように思われる。しかし、芸術家とか研究者などは若い頃から研究なり作品作りに精根を傾けているので、ライフワークもその仕事の延長線上に築き上げることが多い。今回の「デスウオッチング」では、作家の遺作をその死亡年代順に取り上げてみた。若い年代の遺作品も多いが、今回は60才以上に限った。
『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の作者である、ドストエフスキーは、1850年から54年までシベリアの監獄に入っていた。1881年1月、彼は喀血し翌月死亡した。彼の遺作は死ぬ3カ月前に書きあげた長編『カラマーゾフの兄弟』である。
アルコール中毒の悲劇を描いた『居酒屋』(37歳)で有名となる。その後、社会の闇部を描く傑作をつぎつぎに発表。最後に4部作『四福音書』の『多産』『労働』『真理』の3部を書き上げた。そして別荘地から自宅に帰ったが、暖房の煙突が詰まっていたために一酸化炭素中毒で死亡した。残された作品『正義』は草稿中であった。
新古典的作風を築き、バッハ、ベートーヴェンと共に音楽の「3大B」と称される。4つの交響曲がある。死の前年、『11のコラール前奏曲』を作曲。この曲は5月に心の支えであったクララ・シューマンが死別したために、その悲しみを慰めるために書いたと言われる。第11曲の題名は「おおこの世よ、われ汝より去らねばならぬ」である。
1928年、27歳でミッキー・マウスを主役とした『蒸気船ウイリー』で成功を博す。54歳の時にはカルフォルニア州にディズニーランドを作った。最後の作品は1966年の『ジャングルブック』。フロリダにある2番目のディズニーランド建設中に死亡。
『婦系図』『高野聖』などの作品で知られる。死の2年前の64歳で『薄紅梅』を発表。没年である昭和14年の「中央公論」7月号に遺作となる『縷紅新草』を発表し、9月に死亡。「あの墓石を寄せかけた、塚の小粋の柄にかけて下山した、提灯が、山門へ出て、すこしずつ高くなり、裏山の風が一通り、赤蜻蛉がそっと動いて、女の影が…二人見えた。」これが最後の場面である。
『ラ・ボエーム』『トスカ』『蝶々夫人』の作品により、ベルディ以後のイタリアのオペラ作曲家となる。没年にはオペラ『トゥーランドット』を作曲していたが、11月に喉頭ガンで死亡した。この作品は未完に終わったが、最後の2場面は、彼のスケッチにもとづいてアルファーノによって完成され、1926年にミラノのスカラ座で初演された。
1762年、『社会契約論』『エミール』などの著作のため、フランスを追われたルソーは宗教界と対立するようになる。死の2年前には、『孤独の散歩者の夢想』を書く。この原稿は未完のまま、机の上に残されていたものである。
セザンヌは44歳頃より「水浴する男たち」の連作を制作していたが、56歳ころより「水浴する女たち」を取りあげ、そのなかでも死の前年まで描き続けて未完に終わった「大水浴」は有名である。63歳頃より糖尿病が悪化して1906年10月、写生から帰る途中、夕立にあって道に倒れ、1週間後に肺炎で死亡した。残っていればそのスケッチが遺作である。
1882年(明治15)「時事新報」を創刊。著書に「学問ノススメ」「西洋事情」「世界国尽」「文明論之概略」など。65才の時の自伝『福翁自伝』は「人は老しても無病なる限りは唯安閑としては居られず、私も今の通りに健全なる間は身に叶う丈の力を尽くす積もりです。」で終わっている。
『ドン・キホーテ』は彼の54歳の時に出版された。そして『ドン・キホーテ後編』の偽物が出版されたので、それに対抗するために続編の完成を急ぎ、死の前年に完成させた。その後、小説『ペレアスとシヒスムンダの苦難』を死ぬまで書き続け、亡くなる4日前に死の床で、彼の庇護者にあててこの本の献辞を書き上げている。
58歳で『読史余論』、59歳で自伝『折たく柴の記』を著す。その年に将軍家継が亡くなり、8代将軍吉宗が将軍になると、白石はその職を解かれ学問生活に余儀なくされる。65歳頃から健康が衰え、それでも死の数日前まで『采覧異言』の改稿を続けていた。
音楽・詩歌・演劇などの総合を目指して楽劇を創始、また、バイロイト楽劇場を建設。歌劇「タンホイザー」「ローエングリン」、楽劇「トリスタンとイゾルデ」などを作曲。彼は死の前年に歌劇『パルジファル』を総譜を完成させた。彼は文筆もよくし、2月13日『人間性における女性的なるもの』を草するうちに心臓発作に襲われ死亡。
『ベニスに死す』『山猫』など高貴な者の没落をテーマにした作品を監督した。1975年9月、彼の最後の作品である『イノセント』の撮影が開始された。そして映画が完成して、あとは編集を残すだけの段階になったときに彼はインフルエンザに罹った。そして76年3月17日、ブラームスの第2交響曲を聞きながら帰らぬ人となった。
私立探偵シャーロック=ホームズの活躍する一連の推理小説で著名。1929年の秋には北欧各地を周り、スゥエーデンではラジオ出演をしている。亡くなる年には神霊術とその歴史についてのエッセイをまとめた『未知への入口』を出版したが、これが最後の作品となった。
小説『破戒』によって作家の地位を確立、自然主義文学の先駆。『春』『家』『新生』などは自伝的作品、『夜明け前』は畢生の大作。遺作である『東方の門』を「中央公論」に連載していたが中絶。「松雲が東京に来て聞きつけたのも、この新時代の跫音である。和尚が耳にした狭い範囲だけでも」ここで終わっている。
時代物『国性爺合戦』、世話物『心中天網島』などで名高い近松は、40年間の長い間、傑作を発表し続けた。70歳になって初めて一作も書かなくなったが、死亡した年にも『関八州繋馬』を書き上げている。
1939年、ジョン・フォードの『駅馬車』に主演して人気スターとなる。1964年、ガンで左肺を切除している。その後も『グリーンベレー』などの作品を制作している。最後の主演作品『ラスト・シューティスト』は、ガン末期の老ガンマンが最後に活躍する西部劇で、1976年の制作であるが、日本ではガンで死亡したときを見計らって公開された。
智恵子との恋愛詩『智恵子抄』は58歳の時の作品。69歳の時に十和田国立公園記念碑の制作のために中野にアトリエを借り、そして翌年有名な乙女の像を完成させた。この頃より肺結核が悪化して、中野のアトリエで息を引きとった。
1859年、50歳で進化論者のバイブルである『種の起源』を出版した。それ以後も10冊以上の書物を出版している。『食虫植物』(66歳)、『植物の運動力』((71歳)。死の前年の作品は『ミミズの働きによる栽培土壌の形成』である。
幕府の命によって蝦夷(えぞ)を始め全国を測量し、わが国最初の実測地図を作製。49歳で隠居し、50歳で初めて測量術を学んだ。そして55歳から71歳までの17年間にわたり3万5千キロを歩きつづけ、日本で初めて正確な日本地図を作成した。この彼の努力はライフ・ワークを志す者にとっての鑑となっている。
横光利一らと新感覚派運動を展開。やがて独自の地歩を築く。小説「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」などを書き、文化勲章・ノーベル文学賞を受く。没年2月「文芸春秋」に『夢、幻の如くなり』を発表。3月、急性盲腸炎で入院し4月に自宅でガス自殺。
『水上の上の音楽』の名曲で知られるヘンデルであるが、52歳の時に脳溢血で倒れた。それでも彼はリハビリで治した。その後、1752年(66歳)、最後のオラトリオ『エフタ』を作曲・初演したが、まもなく通風が苦しめ、失明をしている。亡くなる年、盲目の体で自分が作曲した『メシア』の指揮を行っている。それから1週間後にロンドンの自宅で死亡。
1811年(文化8)南北の名を襲(つ)ぎ、舞台構成の奇想と煽情的な作風が時代にむかえられた。『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)』『お染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』『東海道四谷怪談』など、傑作が多い。没年の11月、中村座の『金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)』の番付に、みずから一世一代と記したが、その11月27日に死亡した。生前には自分の葬儀の段取りを茶化した『寂光門松後万歳』を書いている。
雑誌に『鞍馬天狗』を連載して人気作家に。昭和42年1月、70歳の時から長編『天皇の世紀』を「朝日新聞」に連載し始めた。1回分を毎日8時間から10時間かけて執筆したという。翌年がんセンターに入院し手術。肝臓ガンであった。昭和48年4月15日、入院先で連載の1,555回目の原稿を書き、そしてそのあとに「病気休載」と書いた。それから15日後に死亡した。
1905年、26歳の若さで「特殊相対性理論」を発表している。52歳の時、ナチスの手を逃れてアメリカへ移住。ニュージャージーのプリンストン高級研究所に勤めた。66歳で退職したが、55年4月に亡くなる迄、この研究所で仕事を続けた。
1885年(明治18)文学論「小説神髄」、小説「当世書生気質」を発表、写実小説の先駆をなす。91年(明治24)「早稲田文学」創刊。シェークスピアの研究・翻訳につとめ、また新舞踊劇を創作。昭和7年、70才の時、歌舞伎台本『阿難の累ひ』『鬼子母解脱』を創作している。
70を越えてから書いた歴史小説『徳川の夫人たち』がベストセラーに。昭和48年2月、入院前に生きて帰ることを願って『大閤北政所』の一行を書いたが、7月結腸ガンのため入院先の病院で死亡した。
ソナタ・弦楽四重奏曲・交響曲の形式を大成、古典様式を確立してモーツァルトやベートーヴェンに影響を与えた。作は交響曲百余、弦楽四重奏曲70余など。オラトリオ『天地創造』は66歳の作品。1802年(70歳)の『ハルモニー・ミサ』を最後に大規模な作品を作ることはなかった。以後健康が衰えて、創作意欲が尽きたようである。
『人形の家』『ペールギュント』などの劇作で知られるイプセンは、1899年『われら死者の目覚めるとき』という劇を最後に作家活動に終止符を打った。翌年卒中で倒れ右半身が付随となった。1年後に2度目の発作に襲われて身体の自由を失い、5年後に死亡した。最後の戯曲はイレーネのセリフから取ったものである。
イレーネ「わたしたち死んだ者が目覚めたときに」
ルーベック「わたしたち、一度も生きた事がなかったということがわかるわ」(2幕より)
長編小説『細雪』は57歳から62歳のときの作品。70歳で『鍵』を発表。この頃より高血圧症の発作で執筆が不自由となり、口述筆記で制作を続けた。亡くなると年の7月に『79歳の春』を執筆。これが遺作である。そのなかでその年の初めに入院し、3月に退院した模様を書いている。死亡したのは7月30日、自宅であった。死因は腎不全と心不全の併発である。
29歳の時にSF小説『タイム・マシーン』を描いた彼は、その後人間の進化を取り扱った『世界史体系』など啓蒙的著作にも取り掛かった。しかし第2次世界大戦の勃発により、進歩思想も崩れてペシミズムに変化し、死の前年には『行きずまった精神』を著し、そこでは自然が人間を拒絶して、人間を滅ぼすという世界観を述べている。
中国の歴史に取材した『運命』(1919)、最後の小説である『連環記』(1940)などの傑作を残した。一方『評釈芭蕉七部集』は54歳の時に着手し、27年の歳月をかけて完成させた。それから4カ月後に亡くなっている。
能を優雅なものに洗練すると共に、芸術論『花伝書』はいまだに評価が高い。「老松」「高砂」「清経」「実盛」「井筒」「班女」など多くの能を作る。72才の時佐渡に流され、そこで『金島書』を書き、74才のときその奥書きをしたためている。
大変虚弱な彼が80まで長生き出来たのは、規則正しい生活と節制のためという。57歳の時に、10年間の思索の賜物である『純粋理性批判』を発表する。1793年(69)に『理性の限界内における宗教』を発表して当局ともめる。そして1798年(74)に最後の大きな著作『諸学部の争い』を出版した。女性には関心がなく生涯独身であった。
67歳の時に右目を失明。71歳の時には左目も悪くなり、73歳の時に失明した。そこで嫁に字を教えて原稿を口述させ、28年かけた大作『南総里見八犬伝』を完成した。74歳であった。その後も『女郎花五色石台』を死ぬ前年より書き始め、亡くなる年まで執筆を続けた。
『戦争と平和』は彼が35歳から6年かけた作品であり、『アンナ・カレーニナ』は45歳から4年後に完成した。50歳頃より彼は人生に疑問を持ち初め、『懺悔』を書いて精神的苦痛を告白している。1899年(71歳)に最後の長編小説『復活』を完成させた。1910年、彼は10月28日の日記に「…寝つこうとするが眠れぬ。1時間ばかり輾転反側。ローソクをつけて座る。ご気分はといいながら妻のソフィアが寝室に入ろうとする。私は嫌悪と怒りがこみあげ、息切れがする。脈を数えると97。横になることが出来ない。家出の最終的な決意に踏み切ることにする。妻に手紙を書く」と書き家を出た。そして4日後に汽車のなかで熱を出し、肺炎となり駅長の宿舎で死亡する。
『夢判断』や『精神分析入門』で有名なフロイトは、67歳の時に口中に白板症という病気にかかり手術を行った。それから死亡するまでの16年間に33回の手術を行うが、研究活動は衰えることがなかった。死ぬ前年にはユダヤ人であったためナチに財産を没収され、ロンドンに亡命した。最後の著作は『モーゼと一神教』で、83歳の時の作。
フランスの生んだ20世紀最高の画家の一人であるマチスは、80歳になっても、『エジプトのカーテン』などの傑作を制作していた。彼は74歳の時に、病気治療のためにニース近郊のバンスに引込み、ここで修道院のための「ロザリオの聖堂」を設計した(1948〜51)。最後の年には、全く寝たきりであったが、絶えずスケッチしたり色紙を切ったりしていたという。
『遠野物語』『山の人生』『妹の力』など多くの著作をものにした柳田は、1953年、79歳で「日本人とあの世」を講演している。1960年(86歳)NHKで「旅と私」を放送。1962年、7月成城大学で「沖縄の話」をする。翌8月心臓衰弱のため死去。
ミケランジェロ抜きでは西洋の芸術は語れない。高さ約4.4メートルある有名なダビデの像は、彼が26歳の時に3年かけて作ったものである。システーナの天井画は1508年から4年かけて描かれたものである。1561年、81歳のとき、彼はデッサン中に痙攣して倒れた。89歳の2月12日、自宅で「ピエタ」制作のために立ち続けで制作していた。その2日後病に倒れたが、微熱をおかして戸外に出た。それから再び床に伏して2日目に死亡した。
富士山の浮世絵で名高い『富嶽百景』は74歳に発表された。70年の作画期に、1日として休むことなく、推定3万5千点の作品を描いたといわれる。没年の1月、絵本『続英雄百人一首』で口絵と英雄像20人を描く。春には絵本『絵本孝経』の挿絵を描く。この年の4月に死亡。
ショーの最初の傑作である『シーザーとクレオパトラ』は41歳の時の作品である。映画『マイ・フェア・レデイ』のもととなった『ピグマリオン』は50歳の作。ジャンヌ・ダルクを扱った『聖ジョーン』は1923年に上演。その後90歳代になるまで創作を続けた。
1897年単独アメリカに渡り11年を暮らす。昭和5年(60歳)英文『楞伽経の研究』で文学博士に。昭和35年、90歳の誕生日を記念して記念論文集『仏教と文化』が刊行。91歳の時親鸞の『教行信證』の英訳草稿が完成する。
99歳
1924年43歳の時に『大漢和辞典』の編集にかかる。第1巻は昭和18年に出版、しかし東京大空襲で全巻の組み版と資料を消失する。そのあと1960年(77歳)に全13巻を刊行。
1955年(70歳)の時に大作『迷路』第6部完結、読売文学賞を受賞する。1963年(78歳)『秀吉と利休』で女流文学賞受賞。88歳になって書き始めた自伝的長編『森』は、昭和60年3月に作者が死亡したことによりあと一章を残して未完となった。満100歳にあと1カ月であった。