1993.11
ギリシャ・ローマ時代の葬儀

  小泉八雲によれば、日本の古代の信仰は古代ギリシャのそれと大変に似ているという。そこで、本当にそうかどうかを調べてみることにした。資料はウイリアム・テグの「ラスト・アクト」によった。

  古代ギリシャ・ローマ人の信仰に従えば、霊魂は現世と異なった世界へ行って死後の生活を営むのでなく、地下において生活を続ける。そこで埋葬は大変に重要な儀式であった。埋葬の儀式は遺体を墓所に葬ると同時に、魂も同じように葬ることと信じられていた。そのため、葬儀の終わりには、故人の俗名を3度呼び、そして「おすこやかに」と3度繰り返した。墓石にも、「誰々がここに憇う」と書かれた。また、故人のために衣類や武器などを一緒に埋葬した。そして、死者のためには食物が供えられた。墓をもたない霊魂には安住の地がなく、ついには怨霊となってしまうという信仰があった。

  しかし単に遺体を埋葬するだけではなく、伝統的な儀式を行う必要があった。カリギュラ皇帝の遺体は儀式なしで埋葬されたため、霊魂が迷い出た。そこで遺体を掘り返し、改めて葬儀を行うまで日本の言葉でいう「成仏」しなかったという。こうした信仰があるため、当時の人々は葬儀を型通り行うことがとても大切であった。人々は「死」よりも、葬儀を行われないことを案じたのである。

  戦死した兵士たちを葬ることを怠った将軍達を、アテナイの人々が殺してしまったという事件も起こっている。また重罪の犯人を罰する方法として、処刑したあとにも葬儀を行わないという刑があった。これは肉体だけでなく、魂をも罰するという方法と言えるだろう。

 

葬儀の法律

  ギリシャの立法家であるソロン(前640〜未詳)は、葬式に種々の贅沢禁止の規定を設け、死者の氏族崇拝に対して、アテネ特有の国家崇拝を導入した。「プルターク英雄伝」によると、ソロンは、「女たちの外出や服喪や祭礼についても法律を定め、無規律と放縦とを戒めた。外出には3枚以上の着物を付けることや、葬列には高価な食物や、高い篭を用いることを禁止し、また女性は夜間外出するときには燈火が必要であった。また悲しみを表すために自分の体をかきむしったり、激しく泣いたり、また他人の葬儀に号泣することも禁じられた。また死者のために牛を犠牲にしたり、3枚以上の服を副葬すること、葬送の時以外は他家の墓に行くことを禁じた」とある。またその後、プルターク(?〜431)の時代には、男子がこうした法に違反した場合には、男子として女々しい感情に陥っているとして、婦人監督官より罰せられたという。

 

ギリシヤ人の葬儀

  ギリシアとローマ人は、死者に尊敬をはらい、死者を、神聖で侵してはならない状態に保った。最も野蛮な人々の間に尊敬をはらい、違反者が不名誉と悪評をこうむるだけでなく、ソロンの法律によって罰せられた。死者に払われた名誉は、彼らの葬儀の大きさにあらわされた。次いで死者の埋葬によって、死後楽園に行くことができ、これがかなわぬときには何年も冥界を彷徨うという運命観が彼らを支配していたからである。

 

遺体安置

  彼らは死者の目を閉ざし、また口を閉ざした。このあと彼の顔は覆われた。ほとんど全ての死後処置は、近親者によって行なわれ、その費用も身内によって捻出された。
  次に体が冷たくなる前に、全身を伸ばし、遺体を洗った。このあと、体に軟膏を塗り、生前愛用した衣服を着せて全身を包んだ。
  有力者が外国で死んだ場合、現地で火葬され遺骨を壷にいれ、あらためて葬式を行って栄誉を授けられた。
  埋葬の前に、死者の口に、地獄の河を渡す渡し守のための貨幣が入れられた。このほかに死者の口に、小麦粉で作ったケーキが入れられた。これは地獄の番犬の激怒をなだめることが目的であった。また遺体を送り出すまでの間、死者の髪がドアに掛けられた。これは家族が悲嘆にあることを示した。また、死者が自らの体を清める水の入った容器がドアの前に置かれた。
  古代人にとって、死者が空気を汚すと思われていた。それ故、葬式が終わるやいなや、すべての家財道具は浄化された。

 

埋葬と弔意

  当時、埋葬の期間は、限られていなかったようである。古代の埋葬は、荘厳に行う以外は、死後3、4日目に行なわれた。特に貧しい人は、翌日行われた。セルビウスの意見では、火葬は死後8日目、埋葬は9日目が望ましいとされた。しかしこれは実力者に限られた。いずれにしろ特別な準備なしでは、荘重に行うことが出来なかった。ある例では、遺体を17日間安置した。そして式典は日中に行なわれた。悪霊は光に弱く、夜は活躍する時間とみなされたからである。
  ときに公の行政長官が死亡したり、公の災害も起きた場合にも、公の会合が中断され、店、寺院、学校が、閉ざされた。そして、すべての都市は、弔意を表した。我々はソクラテスの死を深く嘆き悲しんでいるアテネ人を知っている。

 

国葬

  アテネの軍人ペリクレスは、サモスを平定してアテナイに帰ると、この戦争で死んだ人々の葬儀を盛大に行い、慣例によって墓前で追悼を演説して感銘を与えた。この葬儀の模様は、ツキジデスの『歴史』の中に述べられている。
「葬儀の行われる2日前に、式幕を張った霊壇に戦士者の遺骨を祭り、遺族の者たちはそれぞれ心ゆく捧げものを供えた。埋葬の時が来ると、葬列は部族別に糸杉の柩に遺骨を納め、これを車にのせて引いて行く。死者は同じ部族の者たちの骨と一緒に納められるのである。さらに覆いのかけられた柩架が、空のままこれに続く。これは行方不明となって遺体が収容されなれなかった者たちのためである。葬列への参加は市民、他国人の別なく許可される。また遺族の女達は墓地に集まって追悼の嘆きをあげる。行列は国家の墓地につくと、柩を安置し、棺が埋葬されたあと、戦死者に追悼の言葉が述べられる。」
  音楽は、死者を天界に導くため、あるいは悪霊を慰めるため、あるいは死者の遺族の悲しみを転換することが目的であったと言う。

 

埋葬と火葬

  埋葬と火葬はギリシア人によって実地された。後のギリシア人が、火葬により影響を受けたが、原始的時代の習慣は、死者を埋葬することであった。哲学者が、火葬に関する意見を持っていた。人間の体が地水火風の4要素で構成されていたと考えられ、最初の原理である火に帰すために火葬が行われたという意見。また死者の魂の出発するため、肉体は汚れていると思われていて、それゆえに火によって浄化される必要があったという説。また魂が粗く不活発な物質から切り離されて、天の住まいへ飛翔するために、物質を魂から切り離すために行われたなどの意見であった。
  彼らが遺体を燃やした薪は、一定の形式はなく、材料もさまざまであった。遺体が、積み重ねられた薪の上に置かれたが、滅多に単独で火葬されなかった。薪の上に種々の動物のほか、貴重な軟膏と香などが炎に注がれた。
  大抵軍人は彼らの武器と一緒に燃やされた。同様に、彼らが着古した衣服もあった。彼らがそれを実施してもらうために、遺言の中に指示をした。火葬の火は、死者の近親者か友人によって点火された。彼らは遺体が早く燃えるように風に祈った。
  将軍と偉大な役人の葬式では、死者に尊敬を表明するために、軍人とその一員は、薪のまわりを3回回った。薪が燃えている間に、死者の友達が、そばに立ってワインを注いで故人の名を呼んだ。薪が全焼して炎が消えると、彼らはワインで火の残りを消し、骨と灰を集めた。遺骨はワインで洗われ、そのあとオイルを塗り、遺骨と灰は壷に納められた。壷の材質は様々で、故人の特質にあった木材、石、陶器、銀、金が使用された。

 

埋葬の場所

  特別の人が死んだ場合、その骨壷は、花と花輪で飾られた。一般的習慣で、骨壷が大地に埋葬されるまで布で覆い、光があたらないように保護した。
  埋葬に関して遺体が上向きに棺に横たわったことが観察された。天に顔を向けることが、より故人の幸福のためになると思われた。原始ギリシア人は、遺体を自分たちの家に用意された場所に埋めた。かってテーベ人は、死者の容器を備えていない家を建てるべきでないという法律を持っていた。そしてより後の時代においても、都市の領域内の、公けの場所に、記念物と共に埋められたようである。
  古代には、寺院が死者のための建物であった多くの例がある。死者に名誉を与えることが、寺院を建てる最初の起源であった。それより後の時代になって、一般的習慣により、死者は都市の外や幹線道路の端に埋葬されるようになった。これは主に都市に伝染するかもしれない有害な匂いから守るためである。或いは、葬式の薪が、彼らの家に燃え移る危険を防ぐためということもある。
  どの家族も、適当な墓場を持っていた。原始的ギリシャの共通の墓穴は、地下の洞穴であった。そしてのちの時代には、いっそう細工されていった。墓は一般に石で整備され、アーチが上に建てられた、そして人家よりも芸術的で、遺族は、その穴で暮らした。石柱に家族、徳、死者の業績を詩の形式で刻まれた。軍人の墓穴が、彼らの武器で飾られた。これは記念物として彼らの記憶を保つために置かれたのである。

 

ローマ人の葬儀

  ローマ人は、葬儀に大きな注意を払った。ギリシア人と同じく、埋葬されない死者は、楽園に入れないと信じていたからである。それをしないと、冥土の河を渡るまでに100年の歳月が必要であった。
  従って遺体が、発見できない時も彼らは墓を建て、葬式を行なった。また偶然死体を発見したときには、遺体に土をかけ、そうしない者は罰せられた。そのため、どんな種類の死も恐れなかったのである。

 

死の準備

  人が死を間際に迎えるとき、彼らの近親者は、口で最後の息を捕えようとした。魂は口から出ていくことを彼らは信じたからである。そのあと死者の指輪を外し、火葬用のまきに上げる前に、再びつけた。そのあと遺体を地面に置き、門に病人を置くことは古代の習慣で、死が確実かどうかを確認した。遺体は、次に湯で清め、葬式の面倒を見る奴隷によって香が塗られた。
  さて遺体には、故人が生前着た最も良い服を着させ、最後の出発をに相応しく、足を外に向けてソファーに乗せて玄関に置かれた。そこで哀悼の辞がなされた。ソファーは、葉と花で飾られた。故人が栄誉の王冠を受けていたら、それは頭上に置かれた。小さい硬貨は、ギリシャ人と同じように、地獄の渡船業者のために死者の口に入れられた。またイトスギの枝が、家のドアで置かれた。

 

火葬の流れ

  ローマ人は、初め死者を埋葬した。埋葬は古代の、そして最も自然の方法であるが、彼らがギリシア人から火葬の習慣を早くに採用した。これはローマ第2の王ヌマの法律、およびローマ最古の法典十二表で言われている。しかし、共和国の終わりまで火葬は一般的にならなかった。しかし遺体が敵によって掘り返されたのを知った皇帝の判断で世界的となった。それもキリスト教の浸透とともに火葬が減っていった。そして4世紀の終わりには見られなくなった。
  7才以前の子供は火葬せず埋葬された。同様に稲光に打たれた人は、それが落ちた場所に埋められた。それに羊をいけにえに捧げて神聖にした。
  葬式は一般市民と兵卒の2種類があった。初代皇帝アウグストス(前64〜14)が、公の葬式を認めることに非常に寛大だった。個人的葬式は、Taciturnと呼ばれた。幼少で、または若年で死んだ葬儀はAcerbic と呼ばれた 。幼児と若者は成人より早く埋められた。公の葬式が意図されたとき、大抵死体が、監視人によって見守られて7、8日の間保たれた。そして男子がむらがる蝿を追い払った。
  個人的葬儀では、遺体は長く安置されなかった。葬式の日に人々が集まり、死体は、足から運び出された。ソファーは金と紫色の豪華な布に覆われ、故人の近親者の肩に支えられた。

 

シーザーの死

  シーザー(前102〜44)がブルータスに暗殺されたことは、あまりに有名で、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』には、その顛末が生き生きと描写されている。「プルターク英雄伝」をみると、シーザーが暗殺された(3月15日)後、遺言状が公表され、ローマ市民の一人一人に相当の贈り物が与えられることがわかった。しかも無残な遺体が中央広場に運ばれていくと、群衆は腰掛けや椅子や机を持ってきて、遺体のまわりに積み上げ、それに火をつけて遺体を火葬にした(3月20日)。
  ウェイゴールによると、遺体は広場に5日間ばかりおごそかに安置され、葬儀は3月20日にいとなまれることが決まり、その日の夕方アントニウスは、シーザーを褒め賛える歌を歌い、そのあと名高い哀悼演説を行ったあとで、遺体を火葬にした。

 

葬列

  貧しい市民と奴隷は、簡素な棺台で火葬用のまきの山へ運ばれた。離乳前に死んだ子供は、母によって火葬台へ運ばれた。全ての葬式が、夜間に執行されるために松明が使われた。しかしその後、公の葬式は日中に行われるようになった。個人の普通の葬式は、常に夜に行われた。葬列に規制がされ、それぞれの役割を割当てる人を引受人、あるいは式司祭と言い、黒衣を着ていた。
  葬列の最初に管楽器奏者が行き、男女がこのために雇われていた。十二表によると、葬式のフルートの数は、10に制限されていた。次におどけ者が歌い踊った。彼らの一人は、生きていた故人の言葉と行動を模倣した。これらの俳優は、劇作家から適切な言葉を紹介した。続いて自由奴隷が続いた。彼らの主人が奴隷を自由にしたのである。
  遺体の前に故人、および彼の祖先の像が運ばれた。これらの像は、葬式の後に再び広場に安置され、故人が戦争で名をあげたなら、栄誉の王冠や強奪品と共に展示された。
  有力者の葬式では、彼らが征服した国を示す像が運ばれた。シイラの葬式では、 勝利した多くの都市から送られた2,000もの王冠が運ばれたと言われている。死者の後に故は、人の友人や喪に服して頭を隠した息子と、頭をぼさぼさにした娘が続いた。近親者は衣服を引き裂き、そして髪を灰で覆うか、髪を引き抜いたりした。葬式に出席した女性のなかには、彼女らの胸を続けざまに打ち、頬を引き裂いた者がいた。しかしこれは法律によって禁じられていた。

 

追悼演説

  有名な市民の葬式では、死体が広場まで運ばれた。そして演壇から追悼演説が、彼の息子、近親者や友人、行政長官によって行われた 。 追悼演説の名誉は、女性にも上院によって定められた。シーザーは彼の妻の死に、若い既婚婦人を賞賛することの習慣を導入した。ただそれの後に老若や既婚・未婚を問わず、追悼演説により栄誉を授けられた。演説の間、遺体は演壇の前に置かれた。
  シーザーの死体は、金箔をかぶせた小さな寺院のようなパビリオンで置かれ、殺害された時の衣服は棒かトロフィーによって掲げられた。そして彼の像は、彼が受けた怪我の痕跡と共に移動できる道具によってさらされた。アウグストス帝の時代に、同じ人をほめたたえる追悼演説が、異なる場所でも行うことが慣習となった 。

 

埋葬について

  古代人は、祖先崇拝によって、自分の家に死者を埋めたと言われている。アウグストスは、アクチウムの戦闘の前に軍人への演説で、「エジプト人は、彼らの不死に関する考えを確立するため、遺体に防腐処理を施した。」と言った。防腐処理についてはヘロドトスが述べている。ペルシャ人は、遺体をできるだけ長く保存するためにろうを彼らの遺体に塗った。ローマ人は神聖と市民の考慮から、都市での埋火葬を禁じた。家が火葬によって危険にさらされたり、空気が悪臭によって汚染するなどの理由である。またジュピターの神に仕える祭司は、遺体に触れたり、墓地へ行くのを許さなかった。そこでユダヤ人の間で大祭司や司祭が、葬式演説を述べ、そして視野にふれないよう遺体に覆いが置かれた。

 

埋葬と火葬

  埋葬の場所には個人と公とがあった。兵卒の墓は、目立ちやすく、死すべき運命を自覚させるために、野原か庭、大抵道路のそばにあった。そして莫大な数の骨が共同墓地に堆積し、隣接地を不潔にした 。
  当時より墓地は売買された。有力者の子孫は、墓を維持する権利を持った。
  城壁内に墓を設ける権利が、並外れた特権として、シーザーに与えられた。人が火葬され、同じ場所において埋められる形式を Bustum (バスタム)といった。火葬用のまきの山が、四方等しく祭壇の形に組立てられた。薪は容易に火がつくモミ、松、オーク材が使われた。また紙と樹脂が補助に使われた 。
   火葬の薪は、故人のランクによってより高低があり、有害な匂いを止めるイトスギの木が置かれた。そして危険防止のために家から60歩の距離を置いた。火葬用の薪に台に乗せた遺体が置かれた。故人の目は開かれた。近親者が遺体に最後のキスをし、たいまつで点火した。彼らは炎を強くするため、風に祈り、そうなった時は幸運であると思われた。火に香料を投げこみ、またオイルの入ったカップや皿、彼らが戦ったことを記念する勲章、衣服と装飾、また故人のものだけでなく自分たちの物も燃やした。それらは、故人が生きているとしたら快いものが選ばれた。
  死者が軍人の場合、薪の上に彼の武器(報酬と強奪品)が乗せられた。皇帝や有力者の葬式では、軍人が火葬台のまわりを3回右に回った。旗を逆さまに持ち、そしてトランペットの音に合わせ、お互いの武器をぶち当てた。この習慣はギリシア人から借りたようである。これはときには毎年墓で行なわれた。種々な動物、特に故人が好きであった動物も火葬台に投げこまれた。
  古代では捕虜は奴隷か剣闘士とされる。ガリアの間では、奴隷が彼らの主人の薪で燃やされた。そしてインド人とトラキア人の間では、妻が夫の薪の上に犠牲となった。
  骨と灰は最も高価な香りが振りまかれた。誰もが富のランクに従って、陶器か真鍮か大理石か銀か金の骨壷に入れられた。土葬では、全ての装飾と共に遺体が棺に入れられた。棺大抵は石から作られた。ローマ人がどの方向に向けられたかわかっていないが、アテネ人は西方を向けて埋葬された。
  故人の遺体が墓に置かれると、聖職者によって浄化するために、オリーブか月桂樹の枝で聖水が3回ふりかけた。それから荘重に「出発してもよい。」という合図で何度も『別れ』をくり返した。
  火葬後3日間、遺骨は土に埋葬させられなかった。会葬者は心身を浄めるため家に戻り、水をふりかけたあと、火の上に歩いた。家も浄めるため、箒か竹箒で掃き清められた。それを行なう人を Everriator と言った。

 

追悼の習慣

  葬式の後の9日の間、家族は喪につき、墓での儀式が行われた。この間、法廷に相続人や故人の関係者を呼び出すことは、不法であった。9日目に生贄が捧げられた。それで儀式は終ったが、死者への奉納は以後何度も行われた。こには、酒と生贄と花輪が捧げられた。墓の前には小さい祭壇が設置され、そして香が焚かれた。番人が墓を見守るため、ランプが灯された。饗宴は、死者と生者のために行われた。墓には一般に豆、レタス、パン、卵などが供えられ、死者の霊が来て食事すると思われた。
  有力者の葬式の後には、故人を慰めるのための饗宴だけでなく、会葬者に生肉の配分が行われた。剣闘士のショーやゲーム。それが何日間も続いた。シィラの息子のファウストタスは、父の死後何年かして、亡き父の敬意を表した剣闘士のショーを表した。また父の遺言に従って饗宴を催した。
  喪の期間は、ヌマによって定められていた。葬儀式をして祖先霊をなだめるため、女性は夫や親の死に10カ月間、或いは1年間喪に服した。災害の場合にも公の喪として、自発的あるいは公の指示で、仕事全体が停止し、法廷や店は閉じられた。過度の悲しみのこうじると、寺院の神像が石で打たれ、祭壇はひっくり返された。このような極端な悲しみは、祖先霊にとって不快であった。喪の間、ローマ人は家で自活した 。どの娯楽も避けられ、彼らが黒衣を着たのはエジプト人の習慣から来たものである。
  家の飾りとなると思われ火も点けない。女性は金と紫色の装飾を取り外し、男性と同じく黒衣を着た。公の喪で、議員は指輪を外し、行政長官はバッジを、そして領事は、上院で普段の椅子に座らず、共通のベンチに座った。

 

墓のはなし

  ローマ人は、一生の間に彼ら自身のために墓を建てたり、遺言によって墓を建てることを指示した。その費用は自分で負担した。金持ちの墓は、一般に大理石で造られ、ギリシャ風に回りに木が植えられた。
  大抵共通の墓は地下に建築された。その多くが、地下墓地(カタコーム)の名前でイタリアにまだ存在している。壁で切り取られた窪みに骨壷が置かれた。これらの鳩小屋の中の窪みとの類似点から、コロンバリアと呼ばれた。墓は種々の彫刻と柱で飾られ、献呈の言葉や墓碑銘が刻まれている。
  遺体がを単に埋葬する場合、献呈の言葉が、石の棺に刻まれた。墓は迫害されたキリスト教徒のために隠れ家の役目を果たした。
  

 

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