1993.04
辞世の句

  辞世の句は日本人の歴史の中で、長く培ってきた伝統の一つであります。これが最近はほとんど書かれなくなったのは、いかにも仰々しい感じがするからでしょうか。
  現在、俳句人口は何百万人とか。「辞世の句」を会葬礼状などに記すのもしゃれたアイディアだと思うのですが。そこで今回は「辞世の句」をとりあげ、さまざまな表現を味わっていただきたいと思います。


芸術家

●山崎宗鑑(1553没)

俳諧の創始者。はじめ足利義尚に仕えるが、その死に出合い、世の無常を感じて剃髪して尼崎に関居する。ついで一休禅士に従う。和歌・連歌を習うが、風狂の人として俳諧の普及につくす。

「切りたくもありきりたくもなし」

という句の附句三句を望まれ、

「盗人をとらえて見れば我が子なり」
「さやかなる月かくせる花の枝」
「心よき的矢の少し長いをば」

と答える。辞世の句は、

「宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありてあの世へといえ」

89歳


●千 利休(1591没)

茶道の完成者。千家流茶道の開祖。16歳のとき京都で茶会を開き、茶の湯の世界に登場。天正13年(1585)秀吉の関白就任にあたり、禁中小御所で茶会が開かれたとき、天皇に茶を献じて利休居士の号を贈られる。天正18年、秀吉の怒りを受け、翌年2月28日切腹する。辞世の偈は、

「人世七十 力圍希咄(カーッ、トーッ)吾這宝剣 祖仏と共に殺す 堤ぐる我が得具足の1つ太刀 今この時ぞ天に抛」

69歳。


●小堀遠州(1647没)

大名茶人、建築・作庭師。幕府の作事奉行となり造園の指導に当たる。古田織部に茶を習い遠州流を立て、後に徳川家光の師範となる。死亡する半年前まで、約1年間に50数回の茶会を開いている。辞世の歌は

「昨日といい今日とくらしてあすかがは(飛鳥川) 流れてはやき月日なりけり」

69歳。


●井原西鶴(1693没)

戯作者。大坂で俳諧を学び談林派の第一人者になるが、41歳の時、浮世草紙の作者となりもてはやされる。作品に『好色一代男』、『日本永代蔵』などがある。元禄6年8月大坂で死亡。その年の冬、門人の北条団水が西鶴の遺稿『西鶴置土産』を刊行し、その巻頭に西鶴の辞世の句と7句の追善発句を載せている。

「辞世 人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに ましてや 浮世の月見過しにけり末二年」

追善発句

月に尽きぬ世がたりや二万三千句 如貞
念仏きく常さえ秋はあわれ也   幸方
秋の日の道の記作れ死出の旅   万海
世の露や筆の命の置所      信徳
残いたか見はつる月を筆の隈   言水

52歳。


●松尾芭蕉(1694没)

俳人。伊賀の生まれ。京都に行き北村季吟に入門して俳諧、和歌を学ぶ。天和5年、江戸深川に居を定め、剃髪して俳諧の研究に努める。諸国を遍遊して、元禄7年10月大坂の旅宿にて没する。有名な「奥の細道」は元禄2年の作である。
  辞世の句は

「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」

50歳。


●小西来山(1716没)

江戸時代中期の俳人。浪花の南今宮村に住む。酒が好きで、ある夜あやしいなりで歩いているところを、目付に咎められ獄に入れられる。しかし名前を名乗らないので留め置かれ、2、3日しても帰らないと門人が訴えて、やっと釈放される。大変だったでしょうと問うと、「自炊のわずらわしさがなくて、のどかである」と答えたという。この人の辞世、

「来山はうまれた咎で死ぬる也  それでうらみも何もかもなし」


●英一蝶(1724没)

画家。狩野安信に学び人物・花鳥にすぐれ、やがて独自の軽妙洒脱な画風を創始。和歌・発句もよくした。元禄11年、幕府の忌諱に触れ三宅島に遠島、赦免後、英一蝶と改名。辞世は、

「まぎらかす浮世の業の色どりも ありとや月の薄墨の空」

72歳。


●羽川珍重(1754没)

浮世絵師。鳥居清信の門人。一生独身で過ごし、言行に謹みがあるので、浮世絵師にはまれなる人物として評判が高い。晩年には仏門に入り、自ら三同宜観居士と称した。また自分で描いた絵馬を、故郷川口の稲荷五社に奉納する。
辞世の句は

「たましいのちり際も今一葉かな」

75歳。


●加賀千代(1775没)

俳人。表具師の娘で、18の時金沢の同業のもとに嫁ぐ。25の時に夫に死別し、剃髪して素園と号す。彼女は人に「炎天に火をふきそうな鬼がわら」と詠まれたが、実際は小柄な美人だったという。辞世の句は

「月も見てわれはこの世をかしくかな」

73歳。


●柄井川柳(1790没)

川柳の点者(判定者)。川柳という言葉はこの人の名前から来ている。宝暦7年(1757)柄井は句を募集し、これが当たり5年後には応募句が1万句を越す。これをまとめたものが『柳多留』として出版される。墓に彫られた辞世の句は、

「木枯しや跡で芽をふけ川柳」

73歳。


●司馬江漢(1818没)

洋風画家。江戸の人。初め鈴木春信に浮世絵を学んだが写生画に転じ、平賀源内と交わり、独自の銅版画法を創製。さらにオランダ人に学んで油絵で風景画を描く。66歳の時に自分の死亡広告をチラシに書いて配った。辞世は、

「江漢が年が寄ったで死ぬるなり 浮世に残す浮絵一枚」

71歳。


●太田南畝(1823没)

文人、狂詩作家。号は屬山人。19歳で平賀源内に認められる。「江戸時代3百年を通して南畝ほど一般庶民から親しまれ、かつ慕われた人物はいなかった」(森銑三)。辞世の歌は、

「ほととぎす鳴きつるかた身初がつお 春と夏との入相のかね」

75歳。 


●柳亭種彦(1842没)

物語作者。『偐紫田舎源氏』の作品で大好評であったが、天保13年(1842)6月、幕府のとがめにあい絶版。翌月19日没。自殺説がある。辞世は

「われも秋六十帖の名残かな」

60歳。


●滝沢馬琴(1848没)

「南総里見八犬伝」の作者。この作品の初編は48歳の時に発表され、完成まで28年が費やされる。その間、68歳で右目を、74歳に左目も失明した。そこで息子の嫁に文字を教え口述して原稿を書き取らせた。辞世の歌は、


「世の中の厄をのがれてもとのまま 帰るは雨と土の人形」

82歳。


●安藤広重(1858没)

江戸末期の浮世絵師。風景版画の連作に名をなし、また花鳥画にも新境地を開いた。作は「東海道53次」「江戸名所百景」など。辞世は、

「東路に筆を残して旅の空 西のみくにの名所を見む」

61歳。


●太田垣蓮月(1875没)

幕末の女流歌人。33歳で2度目の夫に先立たれ、剃髪して蓮月尼と称した。父の死後陶器を作り、自詠を入れたものが「蓮月焼」として人気を博したため、金銭には困らず、飢饉などには、奉行所に匿名で寄付をしている。明治8年12月死亡。遺体は遺言通り、普段米びつに使っていた棺桶に納められ、西芳寺(京都)に埋葬された。辞世の歌

「願わくばのちの蓮(はちす)の花のうえに くもらぬ月をみるよしもがな」

85歳。



庶民

●商人の娘(年代不明)

「黒甜瑣語」にのっていた話。丹波の国の商人の娘、28歳で死亡したが、辞世の句三首を残していた。

(題:湯灌いや)「おのづから心の水の清ければ いづれの水に身をや清めん」
(題:経かたびらいや)「生まれ来て身には一重も着ざりけり 浮世の垢をぬぎて帰れば」
(題:引導いや)「死ぬる身の教えなきとも迷うまじ 元来し道をすぐに帰れば」


●世捨て人(年代不明)

「歌俳百人撰」の話。京都誓願寺の門前に朝夕寝起きしていた非人(世捨て人)がいた。歳は40歳くらいで、その言動から、大変に由緒ある者のなれの果てのようであった。その者が傷寒(急性疾患)を患い死亡し、男の残した菰の中に辞世の句が残されていた。

「呉くれぬ憂さ嬉しさも果てぬれば おなじ裸のものの身にこそ」


●鬼坊主清吉(1805没)

鬼坊主清吉という男がいた。生まれは江戸小田原町で、魚売りを職業としていた。文化2年6月、罪を犯し千住小塚原で処刑となる。その時の辞世の句、

「武蔵野にはじかる(=はだかる)程の鬼あざみ 今日の暑さに枝葉しおるる」


●乞食女(1672没)

寛文12年4月、京都三条橋の下で20歳あまりの乞食女の遺体が発見された。死因は自害で、かたらわには辞世の句が残されていた。

「ながらえばありつる程の浮世ぞと 思えば残る言の葉もなし」

とあった。これが都で評判となり、ある貴族もこれに対して歌を詠んだ。

「言の葉は長し短し身のほどを 思えば濡るる袖の白妙」(新著聞集)


●叩々老人(年代不明)

駿河の国に叩々老人という者がいた。禅に興味を持ち、生涯を酒落に暮らしたが、あるとき子供が紙の幽霊を作って木に掛けて人を驚かしていたが、この老人、こんなものでは駄目だと白の浴衣を着て竹馬に乗って、夜中森林の前を徘徊した。時に侍がこれを見て、剣を抜いて切ろうとした。老人は竹馬から落ちてそのショックで腰の骨を挫いてしまい、それ以来病の床に伏せるようになって、遂に死亡した。その辞世、

「五斗(醤油のかす)はおき 後生(来世)も乞わぬ我が腰を折りて今日はい左様なら」(今昔狂歌叢書)



学者・医師

●契沖(1701没)

江戸時代の古典学者、歌人。13歳で高野山に登り剃髪。40代頃から古典研究を始め、「万葉集代匠記」を完成させる。元禄14年1月、病床にあった契沖が、弟子の質問に答えて述べた言葉は

「心平等といえども事に差別あり。差別の中心はまさに平等たるべし」

61歳。


●貝原益軒(1714没)

黒田藩の儒者。有名な『養生訓』を著し、それを地で行った。長崎で医学を修め、明暦1年(1655)江戸に出て、翌年より黒田藩の藩医となる。35歳で福岡に帰り、それから50年の間に247巻の著作を残した。辞世は、

「越し方は一夜ばかりの心地して 八十路あまりの夢を見しかな」

84歳。


●山村通庵(1751没)

松坂の人、医学を後藤左一に学び、自右一と名乗る。剃髪し通庵と号す。彼の説は「師は灸の治療に心をつくしたが、私は温泉の効用を試みるために諸国に出向き、その効き目を実地に試してみた。但馬の城崎、上野の草津の湯は天下に類を見ないほどすばらしい。しかし現地まで行くことが出来ない者のためには治療を施す」と言う。寛延4年7月、80にして死亡。辞世の頌は、
「本来の宗風 端無く達通す 眼光落地 自性真空」(近世畸人伝)


●香川玄悦(1777没)

産科医。鍼灸が得意で、独学で産科を修得し、香川流の産科の名を高めた。自ら「医は仁術」を実践した。辞世は、

「仏神の恵みに叶う我が流儀 末世の人を救いたまへや」

88歳。


●木内石亭(1808没)

江戸時代の鉱物学者、奇石収集家。諸国より珍しい石を集めてコレクションする。著書に「雲根志」がある。彼の辞世に、

「大名窮屈、公家貧乏、坊主うそつき、禰宜さみし 阿?(ノク)多羅三?(ミャク)三菩提の仏達 なさしめ給え金持ちの子に」(今昔狂歌叢書)


●平田篤胤(1843没)

国学者。寛政7年(1795)脱藩して秋田より江戸に出て学業に努め、のちに松山藩士平田篤隠の養子となる。1803年、本居春庭に入門して国学に志す。晩年はその尊皇思想が災いして、幕府から江戸退去命令を受け、死の2年前に秋田に戻る。辞世の歌は、

「思う事の一つも神に勤めをへず けふや罷るかあたらこの世を」

67歳。


●伴信友(1846没)

国学者。小浜藩に仕えたが、49歳の時に病気になり隠居。以後もっぱら学問に努めた。古典の考証を得意とし、神代文字の存在を否定した。辞世の歌2首、

「いまわには何をかいわむ世の常に いいし言葉ぞ我が心なる」
「ついに逝くときはきにけり 残りいてなげかん人ぞかなしかりける」

73歳。



●戯僧(年代不明)

「新著聞集」の話。堺の真言宗の僧で、日頃より酒をたしなんで、酔いの醒めていることがないという飲んべえがあった。しかし祈祷しているときは、迫力があり人々も一目おくのであった。この僧が死に遺品を調べると、遺言や辞世が出てきた。遺言には「寺と書籍は甥の僧に贈る。金三百両は草履取りに。出家の財宝は災いのもとである。衣服はそれぞれに与えよ。」とあった。辞世は、

「世の中はしやのしやの衣つつてんてん でくる坊主に残る松風」


●無抑和尚(年代不明)

備州東南の山に無抑和尚という世俗を捨てた男がおり、「亡我法数」を編集して名を残した。その辞世に、

「傀儡抽牽、六三年 喝 春風天を拂う」

がある。傀儡とは操り人形のことで、それをひっぱること63年、再び木のきれとなる。(清閑雑記)


●夢窓疎石(1351没)

臨済宗の禅僧。1325年、後醍醐天皇の勅により南禅寺の住持となるが、北条氏に請われて鎌倉に入る。北条氏滅亡後再び南禅寺に入る。京都騒乱後は天竜寺の開祖となる。遺偈は

「真浄界中別離無し 何ぞ須らく再会を他時に待たん 霊山の付嘱(たのみ)今日にあり 護法の権威誰か仰がん」

77歳。


●一休(1481没)

室町時代の禅僧。30歳頃から風狂さが発揮される。文明13年、持病の瘧(熱病)が悪化し、11月酬恩庵にて死亡。その最後の10年間、盲目の森侍者と夫婦として過ごしたという。遺偈

「須弥南畔(この世界)誰か我禅に会う。虚堂来る也。半銭に値せず」
(意訳:この世界、誰が我を理解できよう。虚堂が来て禅を示そうと、半銭にも値しない)

88歳。


●桃水(1683没)

僧桃水は、島原の禅林寺の住持をしていた。ある日寺を出て行方行方知れずになった。弟子の二人の僧が安井門前の、乞食の集まる中に師の姿を発見した。二人は師に従うと云うと、師は駄目といい、一人を他の師に紹介し、一人には「私のするところを見よ」といって、乞食の死んでいるところに行き、弟子とともにこれを埋め、その死者の食べ残しを食べよと言った。弟子はそれを口にしたが、臭くて吐き出すと、お前にはこの境涯には耐えられないのでここでお別れだと言って去った。晩年には洛北の鷹峰で酢を売って生活し、天和3年9月死亡。
  遺偈は

「七十余年快哉(気持ちがいい)。尿臭の骨頭何の用を作するに堪える。c真帰の處作麼生(どうなのか)。鷹峰月白く風清し」(近世畸人伝)


●仏行坊(1756没)

仏行坊はもと日枝山無動寺の住職であったが、院務がいやで坂本に隠居して、ひたすら念仏三昧に明けくれていた。ある年の3月に、山僧が師の庵を訪ねると、また桜の季節に再び来たまえという。そこでその時期になって訪れると、ただお茶を出すだけで、何のもてなしもしない。
「今日は花見だからもてなしがあると思った」と言うと、「花を見て、それでも心がもの足りないではいけない、足るを知りなさい」と説教を受ける。こうした師も、宝暦6年4月いよいよこの世とお別れが近くなると、下部の僧が師の画像をもって、これに一言書き付けてほしいと依頼する。それに答えて

「ゆこうゆこうと思えば何も手につかず ゆこやれ西の花のうてなへ」

と書いて、西に向かって合掌し亡くなられた。(近世畸人伝)



武士・武将

●太田道灌(1486没)

武将。上杉定正の執事。江戸城、河越城などを築く。7月26日、主君の上杉邸で暗殺される。辞世の歌

「かかる時さこそ命の惜しからめ かねて亡き身と思い知らずば」

54歳。


●足利義尚(1489没)

足利幕府第九代将軍。母は日野富子。長亨元年(1487)7月、近江の守護六角高頼を討つために出陣。延徳元年3月26日、母の介護の甲斐なく死去。
辞世の歌は、

「もしを草あまの袖じの浦波に やどすも心有明の月 出る日のよの国までの鏡山を 思し事もいたづらの身や」

25歳。


●上杉謙信(1578没)

戦国大名。武田信玄と信濃の覇権をめぐって数度戦う。天正6年3月、毛利氏と連合して織田信長と対決しようとしたが、出陣の6日前に脳卒中で死亡。死の予感があったのか、謙信は2月に京都から画工を招いて自画像を描かせ、それに辞世の句を書き残している。

「四十九年一酔の夢、一期の栄華一盃の酒」

『名将言行録』にある辞世の歌は、

「極楽も地獄もさきは有明の 月ぞ心にかかる雲なき」

48歳。


●明智光秀(1582没)

戦国武将。初め斉藤氏に仕え、1566年信長に仕えた。元亀2年(1571)若狭平定の軍功により、近江坂本城主となる。天正10年6月、丹波亀山城から上洛し6月2日、本能寺で信長を討つ。6月13日、山崎の合戦で秀吉に大敗。小栗栖で殺される。辞世の言葉、

「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば一元に帰す」

55歳。


●柴田勝家(1583没)

武将。信長の家臣。本能寺の変以後、織田氏の後継者問題で秀吉と対立。天正11年4月、近江賎ケ岳で敗れ、居城の北ノ荘城で、敵軍包囲の中を最後の酒宴を催し、翌日夫人(お市の方)と共に天守閣に登り、火を放って自刃する。二人の辞世の句は、お市の方が、

「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の 夢路をさそう郭公かな」

これに答えて勝家は、

「夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ山郭公」

勝家61歳、お市の方37歳。


●蒲生氏郷(1595没)

会津藩主。若年で信長の人質となり、次いで秀吉に仕える。小田原征伐の功により会津若松へ移封する。文禄の役のとき、従軍中に病気となり自邸で歿した。
辞世は、

「限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ」

39歳。


●豊臣秀吉(1598没)

武将。父は織田家の足軽。織田信長に仕え、天正1年(1573)近江長浜城主となる。「本能寺の変」後、光秀を討ち、天正18年に天下統一を成し遂げる。文禄・慶長の役(1592〜98)を起こし朝鮮に出兵。慶長3年8月、「虚損の症」(ガン)で伏見城にて死亡。辞世の歌として知られる、

「露と落ち露と消えにし我身かな 難波の事も夢のまた夢」

は、天正15年、秀吉51歳の時のもの。63歳。


●黒田如水(1604没)

キリシタン大名。秀吉に仕え、山崎の合戦、九州征伐に功績をあげた。関ケ原では家康側につき、その後太宰府に隠居をして、福岡に教会を築いた。慶長9年3月、山城国伏見屋敷に滞在中に急病で死亡。遺言により福岡の教会で葬儀が営まれた。辞世の歌は、

「おもいおく言の葉なくてついに行く 道は迷わじなるにまかせて」

59歳。


●徳川家康(1616没)

徳川初代将軍。今川義元・織田信長と結び武田氏は滅ぼす。ついで豊臣秀吉と和し、天正18年(1590)関八州に封ぜられて江戸城に入る。秀吉の没後伏見城で執政、慶長5年(1600)関ヶ原の戦で石田三成らを破り、征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開く。元和2年1月腹痛をおぼえ、容体が悪化して4月17日死亡。棺は久能山に納められる。
辞世は、

「嬉しやと二度さめて一眠り うき世の夢は暁の空」

75歳。


●伊達政宗(1638没)

仙台藩の藩祖。関ケ原の戦いで徳川方に組して上杉景勝と戦い、慶長8年(1603)居城を仙台に移して、仙台藩の基礎を築いた。寛永13年4月、政宗は病気をおして江戸桜田の藩邸に入った。5月21日、将軍家光は伊達屋敷に見舞に訪れ、それから3日後に死亡。
辞世の歌は、

「雲りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」

69歳。


●浅野長矩(1701没)

播州赤穂藩5万3千石の藩主。元禄14年3月11日、勅使饗応を幕府より仰せ付けられ、吉良義央に教示を受けたが、不親切にされて3月14日午前10時、吉良義央(当時60歳)を江戸城本丸松の廊下で切りつける。これにより奥州一関城主田村邸にお預けとなり、同日午後6時、出合の間の庭にて切腹。長矩の遺体には蒲団がかけられ、泉岳寺に葬送された。辞世の歌は、

「風さそう花よりも猶我はまた 春の名残りをいかにとかせん」

35歳。


●大石良雄(1703没)

浅野長矩の家老。赤穂浪士の頭領。通称、内蔵助。兵学を山鹿素行に学ぶ。元禄14年(1701)3月、主君長矩が吉良義央刃傷のため切腹。翌年12月、同志と共に夜吉良邸に討ち入り、明くる年の2月4日切腹。辞世は、

「あら楽し思いは晴るる身は捨る 浮世の外にかかる雲なし」

44歳。


●山岡鉄舟(1888没)

江戸時代末期の幕臣。慶応4年江戸城開城に貢献。130キロ離れた三島の龍沢寺に参禅するため、夜間の間に往復したしたという豪傑。明治22年7月、2年前からの胃の病が悪化して、坐禅を組んだまま往生をとげる。辞世の句は、

「腹痛や苦しきなかに明けがらす」

53歳。

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.