1992.09
遺骨の話

  人間の最終形態は骨である。この骨にまつわる話はたくさんあるが、事柄の関係上悲しい話が多い。今回の「デスウオッチング」は遺骨にまつわるニュースを取り上げてみた。


戦争と遺骨

●戦没者の遺骨収集進む

  第二次世界大戦で死亡した日本人は、軍人・準軍属合わせて230万人、戦災での死歿者は50万人を数え、この両者を合わせると約310万人という。このうち本土以外(沖縄を含む)の戦没者は約240万人で、最も死亡者が多かったのがフィリピンの51万8千人である。こうした海外戦没者の遺骨の収集が初めて行なわれたのは昭和28年で、この年から昭和33年までの6年間に、アメリカ管理地域内での遺骨収集が行なわれた。
  この第1次遺骨収集の結果、収集された遺骨は約1万1千柱である。次いで、第1回の遺骨収集の方法が再検討され、第2次遺骨収集が昭和42年から行なわれた。この時の収骨数は約11万5千柱と前回の成果を大きく上まった。


●第3次遺骨収集

  第3次遺骨収集計画は昭和48年に立案され、初年度の予算は2億2千万円である。この期間の収骨数は9万9千柱で、一応の区切りがつけられた。なおその後も収骨が続けられ、昭和51年から61年までの収骨数は5万2千体であった。


●トラック諸島の遺骨収集

  『大法輪』の昭和51年1月号に、第3次収骨でトラック諸島に僧侶の資格で参加された、浅草寺の清水谷さんの記事が紹介されている。清水谷さんは9月3日から23日まで、僧侶として読経・塔婆を立てて供養する仕事についたのである。作業は朝7時に弁当持参で現地に行き、そこで午後4時半まで収骨作業を行ない、最後の日にこれまでに集めた遺骨の燒骨を行なうのである。燒骨の場面を引用してみると、「木材を高く井桁に組み合わせ、その上に541柱のご遺骨を置き、燒骨の火が放たれた。40度を越す南洋の強い陽射しのもとに荼毘のメラメラと赤い炎が骨を包み、ゴーというほむらの音のほかにキシッキシッとお骨が哭く声とも思われる音が聞こえる。火焔のなかにいます英霊に、わたしはひたすら得脱をねがいつつ読経をしたのであった。(中略)約6時間後、まださめやらぬ白骨を袋につめる団員の顔にも一応の安堵感がうかがえる。」このようにして集められた燒骨は、氏名のわかっているものは遺族のもとに、その他のものは千鳥ケ淵の墓苑に納められた。


●千鳥ケ淵戦没者墓苑

  祖国に送還された遺骨のうち、氏名が判明しない遺骨の扱いが問題となったが、第1次遺骨収集が終了した翌年の昭和34年3月に、「千鳥ケ淵戦没者墓苑」が出来上がった。竣工にともない、同墓苑にはそれまで仮安置中であった戦没者の遺骨8万7千柱が納骨され、竣工並びに追悼式が行なわれた。戦没者追悼式はその後、昭和40年3月に行なわれ、41年より毎年春に「千鳥ケ淵戦没者墓苑拝礼式」が行なわれるようになった。この拝礼式は、前年の拝礼式以降に持ち帰られた遺骨で、身元のわからない遺骨に対して拝礼が行なわれるものである。


●今も続く沖縄県の収骨作業

  沖縄での死者は約18万6千人、そのうち約18万4千人の収骨がすんでいるが、今なお遺骨収集が続けられている。昭和63年2月に金光教信徒らによる沖縄戦戦没者遺骨収集奉仕団の収骨作業が、糸満市内の5ケ所で行なわれた。この年で12回目で、本土各県から350人余りの奉仕団が参加し、2日間にわたる捜索が続けられた。


●無名戦没者の遺骨は33万柱

  平成3年春、無名戦没者を慰撫する戦没者拝礼式が、千鳥ケ淵戦没者墓苑で行なわれた。平成2年の1年間に、東部ニューギニア、フィリッピン、パラオ諸島などから持ち帰った遺骨1,100柱があらたに納骨され、これまでに納骨された身元不明の遺骨は33万2857柱となった。平成3年10月現在、戦没者数約240万人のうち、身元のわかっている遺骨をふくむ遺骨送還概数は、2分の1の約121万人である。


●ノモンハンで戦死した遺骨、祖国に

  中国地域での日本人死歿者は約71万人。そのうち中国本土の戦没者の遺骨の多くはは、戦争中に現地部隊から送還された。しかし旧満州地区の約25万人他の遺骨は、収集の見通しさえ立っていない。昭和47年9月に日中国交されたが、返還の見通しは立たなかったが、昭和54年には、阿波丸戦没者の遺骨368柱などが返還された。
  平成元年秋に、中国・東北部ノモンハンの戦場跡で日本軍少尉の遺骨と認識票が見つかったと、中国外務省から厚生省に連絡が入った。遺骨が少尉のものとの確認がとれれば、中国紅十字会(赤十字)と日本赤十字との間で遺骨の引き渡しが行なわれる。


●アッツ島での遺骨収集進まず

  日本軍将兵2,638名全員が死亡し、大本営が初めて「玉砕」という言葉を使ったアラスカ州アッツ島での遺骨収集は、昭和28年に行なわれた。この時収集された318柱のうち、遺骨収集団がアッツ島で収集したのは82柱だけで、残りの236柱は米軍が集めたものであるとして、厚生省の収集態度に不満がもたれていた。
  第1回の遺骨収集に参加し、昭和62年に2回目の収集に参加した山崎さんは「アッツ島は寒さが厳しいだけに、当時発掘した遺骨は保存状態がよかった。しかし、米軍が埋葬した遺体は砕石と凍土の下になっており、スコップで掘るのに時間がかかった。」と語った。


●佐世保に残る無縁仏5,000柱

  昭和24年、米軍よってフィリピンなど南方から佐世保に送られた元日本兵や在留邦人の遺体・遺骨約5,000柱の遺族探しの写真展が、昭和63年2月に行橋の市民会館で行なわれた。調査によると、遺体の大半は米軍の手によって名簿がつけられ、中には戦没地、所属部隊、死亡年月日など判明していたものがあったにもかかわらず、佐世保引揚援護局によって野天で火葬にされ、遺骨は無縁仏にされてしまったという。写真展を主催した小西さんは「なぜ遺骨が遺族の元に送り返されなかったのか」と遺族探しを続け、これまで約400柱の遺族を発見している。(西日本88.2.25)


●日本人の遺骨、台北に2万柱

  日本人の遺骨がいまだに2万柱も台湾・台北市に埋もれたままになっているという。戦前まで台北にあった西本願寺別院は、昭和21年、国民政府に接収され、現地にいた日本人僧侶は、納骨堂にあった2万柱の遺骨を残したまま本国に引き揚げた。その後遺骨はトラックで、教会の布教所の敷地に埋められたが、その後埋葬された場所は教会と駐車場に変わっている。この遺骨の問題に対し厚生省援護局では「外交ルートのない国ではどうしようもない」と答えている。(中国86.12.22)


●韓国人の遺骨、一括送還

  太平洋戦争で日本軍に召集、採用されて戦死し、引き取り手のないまま都内の寺院に安置されている朝鮮半島出身者の遺骨について、厚生省は韓国出身の707柱を一括返すことにきめた。厚生省によると、戦時中、日本軍に採用されたのは24万2千人で、約2万2千人が戦死した。戦後、身元の判明している朝鮮半島出身者の遺骨は、旧軍関係から遺族に返還されており、昭和59年までに8,831柱の遺骨が返還された。しかし、その後は引き取り手も現われず、厚生省が都内の祐大寺に保管を依託していた。現在残されている遺骨は1,140柱で、このうち韓国出身の遺骨は708柱、北朝鮮出身は432柱である。(読90.7.5)


●韓国人被爆者の遺骨、広島別院に安置

  韓国人被爆者の遺骨86体が、86年12月に、田舎の寺よりも韓国返還への機会が多いとして、沼隈町の寺院から広島市の本願寺別院に移された。この遺骨は韓国から広島に強制連行され、造船所で働き、被爆した人達が、終戦の21年秋、帰国途中、長崎県沖合で台風にあい死去した人たちのものである。51年長崎県芦辺町の海岸に仮埋葬されていた86体を収容して、沼隈町の寺院に仮安置されていた。


●フランス兵の遺骨故国へ

  昭和61年8月、第一次インドシナ戦争中に戦死したフランス軍兵士約2万5千人の遺骨が、ベトナム内の墓地からフランスに送還されることが決まった。フランス軍兵士の墓があるのは、ハノイ近郊のバフエン、ホチミン市に近いタンソニエット、ブンタウの3ケ所の軍人墓地で、昭和61年にブンタウ、タンソニエット(7,220人分)、62年にバフエン(1万8千人分)の遺骨が掘り出され、空輸される計画が立てられた。その後フランスに送還された遺骨は、遺族が個別に埋葬を望んだものをのぞいて、新たに建設される墓地に埋葬される予定である。(読売86.8.14)


●アメリカ兵の遺骨も故国へ

  ベトナム戦争当時行方不明になった兵士(MIA)捜索に当たっていた米軍調査団が、カンボジアのプノンペンでMIAとみられる6柱の頭骨、歯などをヘン・サムリン政権から引き取り、米ハワイ州に移送した。(読90.7.27)


●北朝鮮でも米兵の遺骨返還

  北朝鮮は米国に平成2年5月28日、朝鮮戦争(1950〜53)で失跡・死亡した米兵士の遺骨5柱を引き渡した。北朝鮮側からの遺骨返還は、休戦翌年の1954年以来36年ぶり。遺骨の返還式は、板門店の軍事休戦委員会会議室で行なわれた。遺骨の納められた5つの棺は、米国に引き渡され栄誉礼を受けた。棺はいったんソウルに移されたあと、29日にハワイの米陸軍研究所に送られ、身元確認作業が行なわれる。朝鮮戦争での未帰還の国連軍兵士は、米兵8,177人、その他18人である。

 


遺骨の話題

●元外交官の遺骨がイランに

  昭和61年8月、半生を外務省職員として海外で活躍された、元日本イラン協会理事の故井上英二さんの遺骨が分骨され、本人の意志でイラン国内の墓に埋葬された。納骨式はテヘラン郊外のレイにある外国人墓地で行なわれ、式にはイラン駐在大使やイラン人が参列した。納骨は井上さんの次男によって、外国人墓地の一角の日本人墓地に納められた。国内では墓が高いので、海外ではどうかを考えることもあるが、あとの供養を望むとかえって高くつきそう。


●遺骨盗難事件

  昭和62年12月28日、人気歌手近藤真彦さんの母親の遺骨が、埋葬先の横浜市栄区の「横浜霊園」から盗まれ、彼のレコードを出しているCBSソニーに「遺骨を預かっているからレコード大賞を辞退しろ」などを要求した脅迫状が送られた。翌日横浜・栄署は近藤さんの父親の立会でお墓を調べた結果、母親の美恵子さんの骨壷がなくなっていることが確認された。同署は墳墓発掘死体領得の疑いで調べている。
  著名人にからむ遺骨盗難事件は、昭和45年11月に自殺した三島由紀夫さんの遺骨が、翌年9月、東京府中市の多摩霊園から骨壷ごと盗まれたことがあり、同年12月に同霊園内の墓近くに戻されていた。
  なお昭和60年に群馬県高崎市と伊勢崎市の市営火葬場から、ステンレス製の箱やドラム缶に入った遺灰が大量に盗まれるという事件が起きた。これは日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故の死亡者を火葬にしたものである。なおこの犯罪の動機は遺灰に含まれる金と思われる。


●夫の遺骨は妻のもの

  亡くなった夫の遺骨の所有権は祭祀(さいし)を主宰する妻か、それとも「家」にあるかの、遺骨の所有権をめぐって裁判が争われた。裁判で争っているのは、東京都江戸川区の会社役員をしている未亡人と夫の妹。この未亡人は昭和28年に会社社長の夫と結婚。その母親と同居していたが、49年、夫はゴルフ場で51歳で急死した。未亡人となった妻は葬儀の喪主をつとめ、遺骨は夫の祖先の墓に納骨し、施主として亡き夫の法事を行なっていた。ところが夫の死後、義母との折り合いが悪くなり、57年6月頃、義母は妻の家を出て、自分の長女のもとに身を寄せた。
  それ以来未亡人も夫の実家との親戚付き合いをやめ、夫以外の祖先の位牌と仏壇を引き渡した。その後、妻はあらたに買い求めた仏壇に夫の位牌を納める一方、葛飾区内の寺に夫の墓を作って遺骨を引き取り納骨しようとした。しかし夫の母親や兄弟が「親戚でなくなった以上、遺骨を引き取る権利はない」と拒否したため、遺骨の引き渡しを求めて提訴していた。
  東京高等裁判所の判決は、喪主かどうかにとらわれず、「夫の死後、生存配偶者(妻)が祭祀を主宰することは、夫婦とその子供を家族の基本とする民法の法意やわが国の慣習に照らしても法的に承認されている。その場合、夫の遺体や遺骨の所有権は通常の遺産相続によることなく、祭祀を主宰する生存配偶者に帰属し、次いでその子供に継承されていく」という考えを示した。(読売88.1.12)


●母親の遺骨をゴミ捨て場に

  昭和61年8月、横浜・山手署はタクシー運転手O(33歳)は、死体遺棄の疑いで逮捕された。調べによるとOは自宅の近くのゴミ集積所に、一週間前心不全で死亡した母親の遺骨を箱ごと捨てた疑い。Oは母親と二人暮らしで、「墓地に行ったが、場所がわからなかったので、困って布団にくるんで捨てた」と言っている。遺骨を捨てた直後、収集に来た市職員が骨箱を見つけて警察に通報して事件があきらかとなった。(読売61.8.27)


●軍医学校跡地に人骨35体

  平成元年7月、東京新宿区の厚生省国立防衛研究所の建設現場で見つかった35の人骨は、1年もたつのに鑑定の引受先が見つからず、身元の解明が暗礁に乗り上げていると報道された。遺骨が発見されたのは旧陸軍医学校跡地で、届け出を受けた警視庁は科学捜査研究所で鑑定した結果、20年以上経過しており、事件性はないと判断して「墓地埋葬等に関する法律」により新宿区に引き渡された。
  ところが、この人骨が発見された場所が旧陸軍医学校跡地であったため外国人の可能性が出てきたので、新宿区は人骨の鑑定を決定した。しかし国立科学博物館に鑑定を依頼したが拒否され、ついで私立医大などにも拒否され、鑑定は暗礁に乗り上げている。(読売90.7.26夕)


●韓国人の漂着遺体は年2、3体

  海難などで対馬沿岸には韓国人の遺体が多く漂着する。こうした遺体は引き取り手がないため無縁仏として島内の各寺に仮安置されたままになっている。これまで確認されている韓国人の漂着遺体は、昭和24年から平成4年1月までに149体で、年平均2、3体である。身元確認は海上保安庁、警察が外交ルートを通じて照会しているが、遺体が腐乱したり所持品がないので身元がわからないままになっている。そのあと、対馬町が火葬し遺骨は寺院で保管している。対馬町村会では59年4月、釜山市に31体の遺骨リストを送り遺族探しが行なわれたが、遺骨返還運動は進展していない。(読売92.1.26)


●寺院からの遺骨移動300件超す

  平成3年4月に日蓮正宗大石寺が創価学会を破門した争いにより、沖縄県内の創価学会員が日蓮正宗の寺から遺骨を移すことを始めた。那覇市役所では、改葬許可証を求める学会員が窓口に殺到し、平成3年12月11日までに300件を超えた。学会側では遺骨を沖縄本島北部・恩納村の創価学会沖縄研修道場納骨堂に移す計画である。改葬のための申請書には、死亡者の本籍や死亡年月日、埋葬年月日などを記入することになっているが、そうした記録を忘れている遺族も多く、窓口は終日混乱をきわめた。
  そこで市は創価学会と相談の結果、申請書類を同会に預け、一括して記入してもらう措置を取った。創価学会本部では「全国各地に納骨施設があるわけではないので、那覇のようなケースが続出するわけではないが、今後は学会員のこうした動きに対応を考えねばならない」としている。(朝日12.11夕)

 


海外の話題

●大統領の遺骨の身代金は11億円

  昭和62年7月、故ファン・ペロンアルゼンチン大統領の墓所が荒らされ、同大統領の遺骨の両手が盗まれた。犯人たちはこの遺骨に対して、800万ドル(約11億6000万円)の身代金を要求した。捜査当局が墓地を調べたところ、同大統領の遺骨の両手が切断されてなくなっており、一緒に埋葬されていた同夫人の手紙や剣が盗まれていた。週末の犯行らしく、犯人は明かりとりの窓から納骨堂に忍び込み、棺の上部の保護用の防弾ガラスにドリルで約20センチの穴を開け、犯行に及んだとみられている。


●今度は遺体の身代金

  遺骨身代金要求事件が起きてから3ケ月後、こんどはローマで、遺体が墓から盗まれ、その身代金に100億リラ(またしても約11億円)を要求する事件が起きた。盗まれた遺体はイタリアで3番目に大きい財閥フェルッジ・グループの創設者セラフィーノ・フェルッジ氏で、10月31日遺族に「遺体を盗んだ。返して欲しければ100億リラ支払え」と要求する電話があった。遺族がラベンナ市郊外の墓を確認したところ、遺体はなくなっていた。


●祖先の骨を返せ

  平成3年9月、西ロンドンで原住民の頭骨293個と骸骨4体を入れたコンテナーが、目録とともにオーストラリア原住民の代表に返還された。この骨はもともと、19世紀に、オーストラリアにある原住民の墓をあばき、時には殺人までしてヨーロッパに運ばれた遺骨である。ダーウィンが「進化論」を発表して以来、イギリス人の学者は研究のために原住民の頭骨を求め、こうした骨はイギリスの大学などの施設では現在3,000は残っているという。
  「祖先の頭骨を返せ」運動は、70年代から始まり、国連も最近、博物館に所有されている原住民の遺骨は返還すべきであるという決議案を採択している。英国では拒否している博物館がある一方、エディンバラ大学同様、返還に踏み切った博物館や大学も出てきている。(読売92.1.11)


●マカオから遺骨が400年ぶりに帰国

  西暦1600年前後、キリスタン迫害で殉教した59人の日本人の遺骨が、今もポルトガル領マカオに眠っている。マカオは1999年に中国に返還されるが、その前に遺骨の帰国をするほうがよいとして、マカオに申請していたもの。マカオのコロネア島南部にある聖フランシスコ・ザビエル教会には、ザビエルの右手や遺品が納められていることで有名であるが、この教会に日本人の遺骨59柱が納められている。この遺骨は九州・山口地方で処刑された日本人殉教者のもので、キリシタン弾圧で国外追放になった神父が、日本から移したもの。


●海外著名人の遺骨はどこに

  1991年に暗殺で亡くなったラジブ・ガンディー首相の焼骨は、デリーのジャムナ川に流されたことは有名な話である。そこで、もっと目を西洋に向けてみよう。相対性理論で有名なアインシュタイン博士は生前、「葬儀はしない、石碑もいらない。そしてニュージャージーのトレントン近くで密かに火葬して欲しい」と語った。彼の希望により、遺骨のあつかいについては秘密にされた。
  やはり科学者で原爆の開発者の一人であったオッペン・ハイマー博士の遺骨はバージン諸島にまかれ、彼がかってヨットで渡ったことのある海に帰っていった。『宗教体験の諸相』などの著書のある哲学者のウイリアム・ジェームズは、ニューハンプシャー州のチョコルアにある渓谷に遺骨がまかれた。小説家のヘンリー・ジェイムズの遺体は火葬にされ、その遺骨は家族の墓に納骨された。作家のヘンリー・ミラーの遺骨は、彼が住んでいたカルフォルニア州のビッグ・サーの海岸にまかれた。
  ロック歌手のジャニス・ジョプリンの遺骨はマリン・カントリー・コーストの海の北でまかれた。億万長者のネルソン・ロックフェラーの遺体は火葬にされ、その遺骨は小さな銅の壷に納められた。元ビートルズのジョン・レノンの遺骨はクリスマス風の包装を施され、小野ヨーコが保管している。作家D・H・ローレンスはフランスのベンスにある墓地に埋められたが、9日後、掘り起こされマルセイユで火葬にされた。そして彼の遺骨は妻の住むニューメキシコに送られた。(「火葬クロニクルス」誌91より)


●私は遺骨をまく女性パイロット

  「火葬クロニクルス」誌91年号に、空から遺骨をまく女性パイロットのインタビュー記事がのっている。記事によると、遺骨をまくときの高度は600から800フィートで、安全が許される限り低空で飛ぶという。そうすれば地上に集まった人々にも、遺骨をまく瞬間を見ることができるという。多くの家族は、遺骨をまく場所を指定する。そこであらかじめ飛行地図を用意して、日時や場所をを確定するのである。
  飛行機から遺骨をまくと、ジェット気流の様に見えるという。彼女が遺骨をまく回数は月に2回程度で、この5年間順調に行なっているという。依頼者は全国から寄せられているが、遺骨をまく理由として、埋葬に対する恐怖があるという。また巻く場所は思い出の土地が選ばれる。

 

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