1991.10
死と民族

  現在日本各地で行なわれている葬送儀礼の形式にはいくつかのルーツがある。そのなかには「北枕」や「枕経」など仏教の影響の明かなものと、「枕団子」のように日本古来からの風習から行なわれているものがあると思われる。今回のデス・ウォッチングでは、日本の民俗的な伝統から、葬送儀礼の意味を探って見た。
  葬式は死体の処置に伴う儀礼で、死が起こってから通夜、葬儀、葬列、埋葬(火葬)までをさすが、所によっては火葬後に葬式を行なうなど、この順序や作法が大変に違っている。しかしいずれにしろその基本的な構造には、いくつかの共通点があるので、だいたいの進行順序で見ていきたい。


臨終から通夜まで

●末期の水

  かっては人が意識が失われ、臨終になると、その人の魂を呼び戻すために、男子が屋根に登り大声で叫び続けたり、水を飲ませたり、顔にかけたりした。大声で死者の名前を呼んで魂を何とか戻そうとすることを「魂よばい」という。また顔に水をかけたり、水を飲ませることで、何とか生き返ってほしいと願う遺族の切実な気持ちの現われである。
「死に水」あるいは「末期の水」は、筆、綿、櫁の葉を水に浸し、それで死者の口をうるおし、水の力で生き返らせようとしたのである。この死に水は、死の直前に行なわれるものと、死んでから行なわれる場合がある。また死期の近づいた病人が、水を飲みたいということを「願い水」という。

 

●遺体の安置の儀式

  遺体はほとんどの場合に北枕にする。ところによっては息を引き取った時には西枕、僧を呼んで枕経をするときには北枕にする。また北枕と同時に、顔を西向にさせるところもある。これは「頭北面西」といって、西方十万億土に極楽があるという西方浄土信仰や、釈迦が涅槃に入った時に取った姿勢に倣うものである。
  顔にはさらしをかけ、手は胸の上で合掌させる。布団や屏風は上下さかさまにする所がある。これを「サカサゴト」という。また遺体を清める(湯かん)ときに用いる湯は、先にたらいのなかに水を入れてから湯を加える(サカサミズ)方法を取る。これらは儀式や呪術を行なうときの特徴で、超自然の力が働きやすくする場をつくるために、日常で行なわれる習慣を意識的に排除するわけである。俗説には、死者の国は現世とことごとく反対になっているため、死者の世界にかたちを合わせたものという。かって夜間に葬列を行なったのも、死者が昼間に冥土に着くように配慮したものという。

 

●枕飾り

  死者の枕元に台を置き、そこに線香、一本花(死者の招代)、ローソクなどを供えることを「枕飾り」という。枕飾りに用いる線香やローソクはそれぞれ1本ずつ立て火をつけておく。これが2本だと死者の霊がどちらに行ったらよいか迷うといって嫌う。
  また邪霊を払うために用いるカミソリや短刀のことを「守り刀」という。置く位置は枕元や胸の上など土地によって違いがあるが、一説によるとこの「刀」は住職が故人の髪を剃った名残りであるという。次に枕飯(死者の使った茶碗に山盛り飯にし、ご飯の上に招魂のために箸を1本を立てる。所によっては死者の使用した箸を2本立てる所もある)や枕団子を供える。
  モクレン科の常緑樹であるシキミは神の意志の先触れをするとされる木で、その実は毒であるため、「あしき実」からシキミと呼ばれるようになった。「一本花」ともいい、死者の枕元に一本花を立てるのに用いる。死者の復活を願ってシキミを立てるのは、正月の門松と同じで祖先の霊、歳神を宿らせて門に立てるのと同じ発想である。
「枕飯」については、食物が肉体を養うならば、魂も養うという考えから、魂の形である丸形にして供えた。出棺の際には、これを茶碗ごと枕飯を投げて割ったり、メシモチが先頭に捧げ持って墓地に供える地域もある。また枕団子は、死んでから善光寺に行くための弁当であるという信仰もある。こうした「丸い」形のものに、月見団子がある。これは月に宿る祖先の霊を、すすきの穂で招き、団子のなかに宿ってもらい、それを食べることで祖霊に祝っていただく行事である。
  枕飾りには、枕飯と枕団子の両方を供える地方が多いが、枕飯だけ、あるいは枕団子だけという地域もある。また柏崎市笠島では、枕飯に箸2本を立てて供え、住職が「カミスリ経」をよんで死者の髪を剃り、お経がすんだあと枕飯の箸を抜くという。(資料1)
  仏壇は開けて打敷(三角の布)を裏向けて白い方に替え、線香・ローソクに火をつける所、仏壇を閉めてしまう所とがある。神棚は死の汚れを忌み、みすをさげるか白い半紙を用意し扉の前を隠すようにして貼る。これを神棚封じといい、忌が明けるまでそのまま貼っておく。所によって半紙にメ(しめ)と書く。

 

●通夜

  通夜はもともと死者の蘇生を願うためのもので、墓地の近くに仮の小屋を立て死者の名を呼び、遺体をゆすり、火を焚いて死者が生き返るようさまざまな努力や呪術が用いられた。こうした蘇生のための期間を通夜という。蘇生行事を葬式のスケジュールに入れていたわけは、それによって蘇った例があったということである。それを裏付けるように、全国に死んでから生き返ったという伝承が数多く残されている。その多くは三途の川を渡った話や美しい花園を見てきたというものである。 これは今でいう「死後の世界」を見てきた話と共通点があって大変に興味深い。現在は死者の蘇生儀礼は行なわないが、交通事故が増大し、それと同時に救急医療が進歩したため、死にかけた人が息を吹き返す例が大変に多くなっている。「臨死体験」が注目を集めている訳である。
  この通夜は普通亡くなった夜の一晩だけだが、翌日が友引の場合には葬式を出さないので、二晩になることもある。その時には最初の晩はごく内輪で行ない、2日目の夜は正式の通夜として行なうのである。通夜は僧侶が仏前で通夜勤行をし、そのあと家人・親族が一晩中、ローソクと線香が絶えないように番をする。通夜は別名「ヨトギ」と呼ばれ、通夜に出されるせんべいをお伽せんべいといったり、「さみし見舞い」「忌中見舞い」という形で、身内や親しい人から菓子やボタ餅が届けられる。

 

●供花

  葬式にはかかせない花篭・花輪は、死者の霊が蘇生するようにとの招代であり、同時にそれは魔除けの呪力をもつと信じられた。壱岐・北九州では、独身の者が死ぬと、あの世で結婚できるようにと、葬列の先頭の人が「花摘袋」を持ち、行き交う人が花をその袋の中に入れてやるという風習があった。これは花がなければ、先祖のいる世界に行けないと考えていたためである。 もともと花は、季節の霊を迎える依代(霊が来て宿る)の一つなのである。かっては季節の変わり目に、祖先の霊を迎えて行なう「ハナ」と呼ばれる行事が行なわれていた。
  葬儀に多く用いられている菊の花は、平安時代の頃から貴ばれていた。特に9月9日の重陽の節句には、菊酒を飲み、菊の花に綿をかぶせて、その綿に肌が触れると長命を保てると信じられていたのである。

 

●死装束

  納棺に先だって、死者に白いさらしの経帷子を着せるのが一般の風習である。経帷子、つまり経文を書いた衣を着せる起源は、もともと真言密教の説に基づくものである。ダラニ(梵語の文句)の威力によって、これを身に帯びるなり衣に書けば、死を迎えるときにも心が乱れず、一切の仏が現われて慰めるという「ダラニ経」の一説から来ている。
  経帷子は手甲や脚絆、そして白の頭陀袋が組み合わされている。経帷子は巡礼の装束であり、死後は西方浄土に向けて巡礼に出発するという発想がある。足袋をはかせるときには、こはぜをとり、頭には白の三角布をつけ、手に数珠を持たせ、首に六文銭の入った頭陀袋をかける。白の三角布はお化けを連想させるので、余り格好のいいものではないが、三角布はかって子供が付けたものであるため、これをつけることで死者が生まれ変わって子供に返ることを願っておこなうという説と、もう一つは三角は蛇の頭を連想させるので、その蛇に返るという説がある。
  さて死装束の色であるが、白は忌みの着物に関係の深い色である。また神仏の使いが白犬、白鳥、白狐、白蛇であるのも、白が霊界の象徴だからである。さて婚礼にも葬式にも白を着るというのは、つまり白が物忌み籠りのための色だからである。神前結婚式のあとでの披露の席には、花嫁は俗世間に戻ることを示すために色直しをしなければならないのである。

 

●納棺

  死者を納棺するときに一緒にもたせるものに、頭陀袋、杖、経典あるいは生前愛用したタバコ、酒、そして生花などがある。死者にもたせる杖は、ふだんとは逆に、太いほうを下に細いほうを手元にする(資料2)。頭陀袋のなかには六文銭、へその緒、血脈。また半紙に糠、灰、山椒の実、石3個を別々に包みオヒネリにしたものを入れるところがある。この灰は目ツブシに、石は悪魔に投げ付けるためだというからブッソウな話である。女性の副葬品として櫛、カンザシ、手鏡などがあるが、火葬が普及してからは燃えないものは禁じられるようになった。
出棺から埋葬まで

 

●出棺

  葬儀のあと、出棺は霊柩車までということで、現代では出棺に伴う儀式が大変に少なくなった。葬儀のあと家から出棺するときに、頭の方から先に出すところと、足から先に出すところとがある。足から先に出す場合には、頭を北にすることを優先にする場合である。さてこの棺を担ぐのは男性で、孫とか甥が多い。これは「オイトマゴイ」という語呂合わせから来ている。(資料3)
  縁側から棺を庭に出すときに、竹で作った「仮門」をくぐるという作法がある。この門は冥土への入り口をあらわし、儀式のあとには燃してしまう。これは死者の霊が戻って来ようとしても、門がなくなっており、2度と帰れないようにするための呪術である。  次に棺を庭の台の上に置き、その回りを参列者が左に3度回るという儀礼を行なう地方がある。これは三匝(さんそう)の礼といい、インドでは最敬礼にあたる。
  回る方向は縄のゆい方と同じように右左がある。左回りをとむらい回りといい、葬儀の時に行なう回りかたである。縄もまた左右があって、普通の縄は右に凶事には左になう。左は神格の位置するところで、普通の人にとって忌む所となる。手前でなく外に向けてひしゃくの水を注ぐのを左ひしゃくといい、野辺のおくりの時にはそのようにして手を清める。こうした回る動作をすることによって、中心を作りその中を聖別する働きをするのである。
  葬列の始まりにあたり、家の門で死者の茶碗を割ったり、わらに火をつけて燃すところがある。これもまた死者の霊がもどらないための呪術とされている。

 

●放鳥の儀

  最近出棺にさいして、白いハトを飛ばす「放鳥の儀」が復活してきている。鳥は昔から人間の魂を運び移すものとされた。「古事記」にも「ここに八尋千鳥になって、天にはばたいて、浜に向かって飛び立った。」とある。チベットで有名な鳥葬では、人間の遺体を鳥に食べさせる。非常に残酷にみえるこの風俗も、実は鳥は天の使いとして、魂を天に運んでいくという意味をもっている。従って肉がそのまま地上に残されていることは逆に不吉なことなのである。
  出棺をデダチといい、出棺が何かの事情で遅れると「死んだ人が善光寺詣りをしています」という地方があるという。

 

●野辺の送り

  野というのは山の緩やかな傾斜面で、そこに死体を運ぶことを野辺の送りといった。道案内役は、先にローソクを曲がり角などに立てる。松明は死者の霊をあの世に転生させるための火である。 杖は死者の孫が、位牌は相続人、膳はその妻がもつ。シカバナは4本ずつ2個の台に立てる。シカバナを持つのは親族で、死霊の招代となる。葬列は神社の前は避けて通る。
  葬列は死者を蛇に化するための呪術であるという説がある。吉野裕子の「日本人の死生観」(講談社)の中で、古代日本人は生まれることは、蛇から人になることであり、死ぬことは再び蛇に帰ることであると言っている。そして死者への変身儀礼のため、「葬列の順は、先頭が燈火、2位がほうき、あるいは竜蛇であるが、ほうきと竜蛇の一致は、両者の本質の一致を暗示する。つまりほうきは竜蛇なのである」(99頁)。そして「葬列のなかで先頭だった竜蛇は、埋葬地に到着すると墓穴の周囲をめぐり、ところによっては、死者とともに埋葬される。」(同頁)とある。これは一見奇抜な説に思われるが、原始の民族はほとんどが蛇を神として信仰してきており、人間に備わってない蛇の神秘的な力を得るために、自分たちを蛇の末裔と考えたのである。また葬列の進み方で、3歩進んで1歩下がるという足の運びを行なった所もある(青森)。
  さて野辺送りの役割と順序を兵庫県の例でみてみる。最近は野辺送りは霊柩車の発達で見ることが少なくなったため、葬儀の意味を探るためにも葬列の役割を把握しておくのも無駄ではあるまい。
  例は津軽半島のもので昭和42年の葬式行列帳からの記録である。
一、花籠
一、燈籠 2ヶ
一、龍幡 2
一、花輪 4
一、盛花 2
一、六具 6
一、盛物 4
一、点湯 点茶 1
一、追膳 1
一、野膳 1
一、朱蝋 1
一、四花
位牌 棺 天蓋 女 龍幡 燈籠
  これにはそれぞれ役割をする人の名前が記されており、開始前にその名前と役割が告げられるのである。(資料3)
  愛知県でみると、次の例がある。最先端は「案内」で、ローソクを竹さおに6本立てた「六道」を持つ。次が先燈篭あるいは先旗。花篭やタツガシラがある場合には、この前後に位置する。以下、花、シカバナ、僧侶、死者の着物、霊供、水、位牌(喪主が持つ)、棺、続いて後提灯か後旗の順である。本来は四本幡で、書式は各宗派によって異なる。このあと生花を持った一般会葬者が続く。(資料4)

 

●埋葬

  埋葬とは死者を土のなかに埋めるように考えるが、かっては蘇生・復活を願って、地面に寝かせ、その上に木の葉をなどをかぶせただけであるという。
葬列が墓に着くと、棺台に棺を置き、棺の回りを左に3回まわるとか、墓の回りを3回まわるなどの所作を行なうところが多く見られる。
  埋葬のときは近親者が参列し、僧侶が読経する。はじめに棺を縄で吊るして穴に入れる。この時、血の濃い順に土を一つかみづつ入れる。
  野辺送りの帰りは、行きの道を通らないのが普通である。死者が戻って来ないようにという呪法である。葬式の帰りには人の家に立ち寄るものではないとされていた。
  次に埋葬を終えて家に入るときの作法を「野がえり」といっている。家に帰ったらまず入り口で体に塩をふりかけたり、塩を手の甲に受けて清めた。また海に近い地域では、浜に行き海水を体にかけたり、海で手を洗い、各自持参した笹に海水を浸し、それを体にふりかけたりした所もある。これは客商売の店先に塩を盛る「塩花」と同じで、海水でケガレを払うことを省略した形であると柳田国男は言っている。(資料5)

 

●骨あげ

  火葬したあとの骨を遺族が灰のなかから拾いあげる作業を「骨あげ」あるいは「拾骨」という。かっては導士がたいまつに火をつけ死者に引導を渡し、最も暗い丑(うし)三つ時に火を入れて火葬しため、骨あげは翌朝に行なわれた。大体が近親者のみで、跡取りが最初に始める。まずノドボトケ(おシャリさん)又は歯から拾うところが多い。一般に足から先に拾って骨壷に入れ、次に上の骨へと順に拾って最後に頭部を骨壷に入れるようにする。「人間の体は骨によって頭、胸、腰、両手、両足の七つ、さらにそれぞれが七つの骨に分けられ、計49になる。忌中の四十九日はここからきており、一つでも欠けると供養にならない」という説がある。(資料6)

 


忌明けと年忌

「忌」とは日常と異なる状態にあるため、避けなければならない状態をいう。従って「汚れ」だけでなく、「清さ」も忌であり、これを冒すと罰や祟りを受けた。儀式を行なう前には身を清め、儀式がすんだあとに、「精進落とし」を行なう。その時には普段の箸でなく、精進箸で海のものを食べると、忌が落ちるとされる。魚は水霊の宿るものであるため、「精進落とし」に役立つのであるという。
  忌と対象的な言葉に晴(ハレ)がある。晴は霊的な力によって満たされた状態をいい、ケとはそうした状態が衰え、失われた状態をさす。普通晴は、聖なる祭りや儀礼を行ない、物事を開始することをいう。また祝宴には供物を食べるが、特に予祝の祭に供える魚類はヒラキにしている。開始をヒラキであらわしているのだ。なお祝宴で「おヒラキ」というと、終わりにしようという意味に使われるが、これは祝宴では「終わり」という言葉は忌むので「オヒラキ」という言葉を用いるのである。

 

●中陰

  さて死後49日の間は、死者の霊は家にいると信じられていた。また仏教では、49日までは中陰の期間といって、六道輪廻の間をさまよっているとされた。そのため盆過ぎに死亡した場合はもちろん、盆以前の49日以内に亡くなった場合でも、新盆を翌年行なうという地域がある。また一般に四十九日が3カ月にまたがるとよくないといって、35日目に四十九日の法要を合わせて行なうところが多い。これは「しじゅう苦が身につく」という語呂合わせから来ている。

 

●形見分け

  形見とはそのものを思いだすきっかけになるもので、現在では死者の衣装や持ち物を、親族縁者らに配ることを「形見分け」といっている。かっては血筋を継承するため、あるいは故人の力にあやかるために、故人の力が封じ込められた衣装や持ち物が伝えられた。形見分けの時期は忌明けから一周忌までが多い。

 

●年忌

  死者供養のための仏事を年忌といい、1・3・7・13・17・23・27・33年に実施し、三十三回忌で終わりとするが、神事関係に仕えた者は、三年忌で祖霊神となるという。反対に五十・百年忌を弔い上げとしているところもある。年忌ごとには、寺の住職を招き供養していただく。
  人は死ぬとホトケになるが、このホトケはまだ汚れていて神棚に祭ること
はできない。しかし三十三回忌のとむらいあげでホトケは個性を失い、神となって先祖の仲間入りして、今度は家の守り神となるといわれている。従って三十三回忌までの間は、子孫が死んだホトケの面倒を見ないといけないのである。年忌を行なうのは、死者の祟りを鎮めるのが本来の目的だったのである。
  最終の年忌である、「弔いあげ」「問い切り」には、位牌を墓地や寺に納め、「うれつき塔婆」や「太い角塔婆」を、墓地に立てて神に祀りかえるのである。うれつき塔婆とは、枝つき木の皮を削って表に戒名を書き、裏に経文を書いたものである。塔婆は普通墓に立てるもので、新しく墓を設けるのは一周忌、三回忌などの年忌の時が多い。

 


資料:

1. 井坂康二「人生儀礼の諸問題」名著出版
2. 木村博「死ー仏教と民俗」名著出版、
3. 佐藤米司「葬送儀礼の民俗」岩崎美術社
4. 「南中部の葬送・墓制」明玄書房
5. 柳田国男「塩雑談」筑摩書房
6. 「青森県葬儀あれこれ」東奥日報社
7. 石上堅「日本民俗語大辞典」桜楓社他)

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.