1991.07
アメリカの霊園事情

  アメリカの霊園は広くてきれいというイメージがある。しかし、その霊園もいろいろと変化して来ている。今回の特集ではアメリカの霊園を簡単に見て、日本の霊園の将来に思いを駆せたい。
  アメリカの霊園の形式はいくつかのに分類できる。カントリー霊園、教会内墓地、エリート田園式霊園、都市霊園、軍人霊園、メモリアルパークなどがその代表的なものである。墓地の歴史は教会墓地から始まるが、それは18世紀の終わりから都市住民から嫌われる存在となった。これは衛生思想の普及などによって、墓地が病気の発生現場と見なされるようになったためである。こうして教会墓地が、田舎や小さい町でかろうじてに見られるといえ、都市のなかではほとんど、機能しなくなった。

 

教会墓地からの脱皮

  19世紀にもっとも影響力を与えたた霊園は 1804年、パリに作られたペール・ラシューズ霊園である。庭園式霊園として、その後も発達し続け、少なくとも100万基以上の 墓と共に、今なおそれは主な観光の名所となっている。設計者は A・ブロニェールで、各区画を曲がるたびに新しい視野が開け、そして高台からは都市のすばらしいパノラマが望める。
  アメリカで最初のモダンな霊園は、1796年コネティカット州ニューヘブンに作られたグローブ・ストリート霊園であった。その霊園は当時の都市開発計画との調和を計り、町から離れた場所に作られた。また霊園は埋葬用の土地を購入できるという考えを初めて導入した。それ以前は教会の規則に従うことが絶対であった。

 

庭園式霊園の元祖

  庭園あるいはエリート田園風の霊園の先駆けは、マサチューセッツ州にある マウント・オーバン霊園である。 この霊園は町の郊外に1831 年に建てられ、ロマンチックな霊園景色を導入した。訪問客は敷地内を散歩し、彫刻を賞賛し、曲がっている区画に沿って逍遥した。田園風の霊園が大成功したため、それがアメリカの公園運動を刺激し、そして景観建築のプロ化を助長した。他のエリートの田園風霊園は、シンシナティ州、スプリンググローブに1844年に建てられ、そして記念物より花壇や池など、景色に重きを置いた『芝生プラン』を導入した。その庭師が、土地の自然の輪郭を求め、そして湖と島と足橋のある地面を美しく飾り立てた。
  名誉ある退役軍人と彼らの家族には、国立の軍人霊園が建てられた。1989年には、国内に 110 の軍人霊園が存在し、墓石は同一の白の規則正しい形に定められた。軍の霊園に葬られた名誉ある退役軍人は、その約11% だった。
  軍人霊園でもっとも有名なアーリントン国立霊園は、少なくとも 毎年400万人の訪問客を引き付けている。それは約600エーカー以上あり、丘と谷があり少なくとも2万本の木が植えられている。アーリントンは人種的に分離された霊園として始まったが、トルーマン大頭領の命令によって 差別が撤退された。

 

メモリアルパーク(記念公園)

  1917年初め、カルフォルニア州のH・イートン博士は『不格好な 記念碑や死の慣習的象徴物』のない埋葬場所を提案した。そしてそこには、高い木々、一帯の芝生、噴水、野鳥、美しい彫刻、沢山の花、気高い建築、光一杯の室内、そして、世界の歴史的記念品とロマンスの色彩で満たされていた。その成果がカルフォルニアの光を受けて誕生した、フォーレスト・ローン・メモリアル・パークである。これが国中のメモリアル・パーク建設のためにモデルになり、メモリアルパークの流行の役目を果たした。またそこは平らに記念墓石を使用した、最初の霊園でもあった。
  こうしたメモリアルパークは、20年間に増殖した。第二次世界大戦 後には、もはやアメリカ人が、霊園や記念碑に関心を失ったとき、メモリアルパークが霊園形態の支配的なものとなった。メモリアルパークは一所に定住しない人々にとって、特に貴重である。彼らは再びよそに移り住んで、再び墓をかえり見なくなるからである。
  死を暗示する記念碑が、メモリアルパークでは不法とされ、そのかわり大きい既製品の像が、公園の入口や公園の新しい区画内で装飾として使われた。ほとんどの区画が非宗派で、名前も向日葵、保護グループ、愛の教会、風の鈴塔、軍隊グループなどと宗教臭を排除している。
  こうした大規模の フォーレストローン と競う合うことができるのは、少数のメモリアルパークだけである。

 

都市のなかの騒音霊園

アメリカで最も大きい 死者の町は、1848年に作られたカルバリー霊園で、ニュヨーク市民の45%がここに埋葬されている。その360 エーカーの土地には、少なくとも200万体の遺体が世話されている。石で満たされた景観は、墓地に相応しくない環境にあり、平和な休息が欠落している。ここは2本の高速道路によって区切られ、常に通過する車の騒音にさらされいる。また、すぐ近くのガーディア空港 から離着陸する飛行機の騒音がある。

 

小数民族の墓

  さまざまの少数民族のグループの文化的伝統が、アメリカの霊園の中に現われている。訪問客は、その国々の守護聖人や、国民性をあらわす墓石の形についての豊富な情報を見付けることができる。イタリアの霊園では台座に、祝福されたされた処女、幼子イエス、憐れみの像、翼を広げた天使など、数多くの等身大の像を見ることができる。
  アイルランド系アメリカ人は、 カトリック風の像を飾らない。彼らはスマートなオベリスクや、 ケルト風の十字架を建てる。カトリック系霊園の新しい区画では、メキシコ人が彼らの墓地にガドルペの乙女の像やステッカーを飾る。キューバ人は嵐の海上で難渋する漁師を守るカリダダの乙女像 や、或いは奇跡を授けるマリア像を好む。イスパニア系 は死者に花を供養し、そして見守りのろうそくを捧げる。
  ドイツ系アメリカ人の区域は、他の民族と比較して、死の悲しみと喪失をテーマに扱い、深みがあるセンスを表現している。こうし印象は、刻まれた オベリスク や、記念碑に使用された灰色の花こう岩によって増大される。ドイツ系アメリカ人記念碑について精巧なものは、醸造業の大物のために建てられた、ミルウォーキー州フォレストホーム霊園のブラッツ家の霊廟は、1896年、当時で4万ドルかかっている。
  ユダヤ系アメリカ人の区画は、ダビデの星やヘブライ語の刻印で見分けることが出きる。彼らの区画は、家族が一緒というより、死んだ順に埋葬された。それというのも、移民した当時の東ヨーロッパのユダヤ人は貧しく、彼らの組織が埋葬のための土地を多く購入できなかったからである。そのため教会墓地のように、空きスペースのすみずみまで、墓に使われた。

 

復古調様式の霊廟

  霊廟建築で最も人気のあった復古調様式は、多くの裕福な家族によって採用された。代表的な例が、銅山王で米国上院議員であった、w・クラーク のために1925年に建てられたものである。その霊廟は、ロサンジェルスの「ハリウッドメモリアル霊園」の池の中の小島に置かれ、古典的ギリシア風設計の寺院で、それが下池に映って大変に美しい。
  絵のように美しいゴシック洋式の中世の復古調もあり、例えばピッツバーグガラス 会社の創設者、フォードの霊廟 がそうである。ゴシック様式が『キリスト教の建築』と呼ばれ、そのとても高いアーチは、予言者や殉教者の型で飾られている。
  エジプトのスタイルは、シンプルな高い塔やピラミッド型、あるいは入り口に控えているスフィンクスによって、霊廟設計でも人気があった。
  また団体墓というジヤンルもあり、アメリカ俳優財団の記念碑、消防士団体の墓が合足、マイアミの南メモリアルパークには芸人協会の区画があり、芸をする動物たちの彫刻が人気を集めている。

 

ビジネスとしての霊園

  1987 年にアメリカ霊園協会 は、その百年祭 を祝った。100年前にそれはその当時にはアメリカ霊園 管理者協会と呼ばれ、中流アメリカ人指導者たちの団体であった。その主な会員は、エリート階級田園風霊園の行政官であった。協会の3つのモットーは、統一、 成長、知識であった。「統一」は死と 記念が、「当然、意見の相違を起こすことを知っていたためであり、「成長」は、国のすべての大きな埋葬地が、彼らのグループに属することを望んでいたためであり、そして「知識」は、彼らが管理、造園、記念物、道路計画と労働関係について教え、そして学ぶことをを期待したためである。管理者は自分達を『死者の都市の市長』と呼び、霊園の維持、計画、警備、財政的監督、PR、そして広告に対する責任があるとした。
  彼らの仕事は、自然景観を研究し、来園者に喜びをもたらすことであった。「公園と霊園」という協会の月刊雑誌では、詩歌、絵画、造園芸術に基づいた景色美術を実施する方法を検討し、管理者の一人が「この国のいかなる人にとつても、その趣味に叶い、最も芸術的で最も進歩的であるべき霊園」を求めた。その結果、田園式霊園の設計のコンセプトを宗教的象徴物ではなく、自然景観が中心に置かれた。それでも霊園管理者は、霊園が都市の美化に果たしている貢献度が低いとして、市民団体に苦しめられた。
  また人々が 一斉に霊園に訪れる戦没者追悼式典や万霊節は、管理者としてつらい時である。多くの人々に彼らの霊園を見せて誇りに思う半面、心ない一部の人々に墓に害を加えられるのを恐れていた。アメリカの霊園業界紙「アメリカン・セメタリー」をみると、毎月どこかで墓石を倒したり破壊されている記事が何十と記録されている。
  アメリカの霊園協会は美しい景色を創って、それを維持する目的を怠った代わりに、「神の神聖の 土地 」は、激しい商取引の場になった。かっては詩的才能のある個人が治めたが、1980年代には、齋場を経営する巨大復業企業、霊園と関連した産業によって、チェーン店モデルに適用する商業的観点で運営されて行った。
  アメリカ最大手のサービスコーポレーションの創設者であり会長のR・ウオルトリップは、会社の方針を「葬式サービス産業における 実際の価値をもつ ハードウェア」会社に変えると宣言し、1989年、彼の会社は国内の葬儀の5パーセントを扱い、歳入で5億4千万ドルを計上した。さらに重要なことは地所で1万3000エーカー(5,000万平方m)を所有していることである。
  新規参入の大企業は利益を得ることに最も関心をしめしている。有名な霊園が、その土地で写真コンテストを企画したりして、市民を引き付け続けたことがあったが、それに続くところがない。

 

墓を訪問する

  19世紀初めから庭園式霊園では、訪問者の多くは嘆き悲しむか、故人の記念日のお参りに来るよりも、都市の喧騒を避けるために訪れた。記念碑と霊園の埋葬機能で満たされていた土地が、都市の居住者にとっての格好の公園になったのである。
  ワシントン にあるアーリントン墓地やロスアンジェルスのフォーレストローン霊園などの有名な霊園は観光客を引き付け、そして観光客はそうした霊園を観光の名所として訪れた。中には霊柩車で有名な俳優の墓地を巡るコースまで雑誌などで取り上げられるようになった。
  しかし記録で見るかぎり、第二次世界大戦以後と比較すると、霊園は1世紀以前の方がたくさんの人が訪問していたことがわかる。たとえばロチェスターの マウントホープ霊園では、 1909 年には平日でも 500から800 人の人が、そして日曜日には3千から5千人の人が訪れたという報告がある。80年後の現在では、その数は5分の1以下におちた。
今日の典型的な霊園見学は、自動車で旅行しながら外側から霊園を見るものである。
  霊園への定期的なお参りは、もはや過去のものになった。墓地と言うとやはり、隔離された気味の悪いイメージが残っている。一般に人が霊園に入るのは家族か友人の埋葬の時だけである。多くが「わたしの家族の誰かが死ぬとき、我々は霊園に行くが、それっきり行くことはない。我々は霊園へ行って、そして花を投げる種類の人間ではない。」と答える。
  しかし老人や最近外国から来た移民グループは、霊園を重要な場所として関係を続けている。週末の毎に何百もの スペイン系の 訪問客が、ブロンクス のサンレイモンド霊園の新しい区画に訪れる。そして、母の日には1万5千人の人が墓参りに出かけるという。

 

邪魔もの扱いされる霊園

  アメリカは、果てしない大地が広がる人口密度の低い大陸であるが、戦略と経済的に価値がある200万エーカーの土地が霊園で占められている。そのためますます霊園の土地転換のための処理が、行なわれている。霊園に対する都市の改善の一つの成功した例は、ワシントン北東のオールドハーモニー霊園で、29エーカーの土地が高速道路のインターチェンジに生まれ変わった。最近では、ハワイの古代の埋葬地において900の骸骨が発見され、そのため1989年のマウイの 海岸ホテルの建設が少し遅れたという。
  民間の投資家が、財政的理由のために霊園の敷地を望んでおり、また都市プランナーと他の政府役人は、これらの有効な土地を埋葬地に使用することについて等しく批判的である。彼らは霊園は浪費的で役に立たなくて、そして醜く、生者から貴重な土地を奪っていると考えている。
「死者に、市民生活を改善する可能性のある資源を独占するのか? 」
  霊園に対する特に重大な脅威が、住宅都市開発局によって起きている。1970年の同局の 報告は、一時的で、そして重要性のない意図をもつ者だけに埋葬を是認するという考えを打ち出した。必要な埋葬儀礼のための、最も良い土地の維持方法として、まだ未使用の土地は、高速道路の高架下に置くか、或いは埋葬スペースを定める前に「衛生完備」を実施し、美化するようにと同局報告は提案している。
  空港の近くの 住民に対する勧告では「葬式の間は騒音のために不都合であるかもしれないが、生活者が最終的に空港騒音からいっそう距離を置くことから得られる利益を考慮すべきである」と報告している。19世紀の霊園の理想が「静かな休息の場所」であったのに対して、驚くべき変化である。墓は葬式の間にだけ訪問されるものと同省の 報告は仮定しているのである。

 

火葬率上昇の影響

  アメリカで最初の火葬場が、ペンシルバニア州で1876年に建設された。世紀の曲がりめで、多くの無宗派 の霊園は、その土地に火葬場 をこしらえた。葬儀業者と違って霊園担当者は、火葬制度が経済安定性に対する脅威としてでなく、霊園景観をよりよく利用する方法として火葬の普及を見ていた。
  1895年にはすでに、「公園 と霊園予測ノート」の中で、死者の遺灰が、再び教会に置かれ、「それによって、天国と大地がより綿密な様子となる」と書かれた。火葬は最近まで肉体の神聖冒涜として、いくつかの宗教によって反対され、そして死者のよみがえりに対する障害と見做されていたが、今では多くの教会によって奨励されてきている。
  何百もの宗教会議で、古来の教会墓地と見合うメモリアル庭園を、遺灰をまくために開発したのである。アメリカでは、火葬が 1920 年の1パーセント未満から徐々に上昇を続け、1961年には少なくとも3.5パーセントに、1986 年には 13 パーセントに、1987年にはカリフォルニア、アラスカ、ハワイ、オレゴン、ワシントン州での全死者の3分の1が火葬になった。そして予言では1995年には、全アメリカの30パーセントが火葬になると主張している。
その結果として、霊園は埋葬場所としての機能を強調するのにやっきになっている。全国火葬協会の L・ダイヤー氏は、「火葬は今では霊園士、葬儀士、火葬士が寄り集まる所では話題の中心である。多くの齋場が、火葬によって手を上げ、そして多くの霊園区画が売れ残るだろう」と1981年の霊園販売員会議において発表した。出席者の商業担当官は出席者に対し、「あなた方の何人が、棺の代わりに小さなかんの中に遺灰を納めるようになりますか」と尋ねた。
  いくつかの手が上がったとき、彼は答えた。「あなたが安い方向に流れることに手を貸しているが、そうなったら火葬は威厳をつけられなければならない。」と答えた。他の話し手は、話を大きくして、「弔いとは販売する何かである。」と答え、彼は壁がん(骨壷を治める壁面)が大理石から作られるようになると予言した。そして花こう岩は多分 前面ガラス で、そしてその壷は、600から800ドルもするかもしれないと。

 

土葬からアパート式霊廟へ

  共同霊廟は、棺を収容するスペースがコインロッカーのように何層にも仕切られ、最上段には、はしごに昇らないと近付けない。普通共同霊廟は数ダースの納棺スペースをもつものだが、イリノイ州のヘブン霊園では2万遺体を収容することができる規模を持っている。
  20世紀初期に、 ニューモーソレウム(霊廟)社がカンポサント (埋葬スペース)をアメリカの主要都市で売り出した。その販促用パンフレットに、地下埋葬は、「暗く、地下の穴に死者が永遠に隠すことである」と大変不快であると断言した。それと対照的に、彼らが死者のための売り出した場所は、「死者のための安全で衛生的な住居」であるという。納棺庫は建物の中のじゅうたんを敷かれた回廊に沿って設けられ、つきあたりはステンドガラスの 窓か 彫刻によって飾られている。
  しかし今日の共同霊廟は、壁と床は確かにきれいであるが、化学薬品の臭いが、堂々とした 霊廟の中に蔓延している。霊廟内は静かで、そして訪問客のない 静寂に満ちた建物で、ほとんどの共同霊廟は、この30年間に建てられたものである。
  初期のエリートの霊廟と違って、それは壁面に故人の名前が記された、飾り気のない 機能的な立方体である。大きい 霊廟では、内部の遺体収容庫 と教会が一緒になっており、大理石の表面と故人の名と生けられた花が少しの色を添えている。

 

墓地の使用料金

  墓地使用料は、霊園や霊園内の場所によっても異なるが、埋葬のための区画はおよそ500ドル(75,000円)。高いものは5,000ドルから、安いところで100ドルとさまざまである。それに棺を埋葬するに当たって、棺を土から守るための覆(ボールト)が必要で、これが300から450ドル。更に完全密閉の商品になるとお値段は高くなる。次に霊廟や屋外共同霊廟の場合、1,500から3,000ドルであるが、これも霊園によって異なっている。共同霊廟の場合、コインロッカーのように見た目には、同じであるが、目の高さの位置にあるスペースが一番料金が高くなっている。その他、墓地や霊廟を開け、埋葬したあとの閉じる費用が別に75ドルから350ドルかかる。
  墓石の場合には、単純な地面の上に平面に置く様式の墓石は250ドル、そしてネームの刻印が1字につき幾らとかかるのも日本と同じである。もちろん永代使用料もかかることはいうまでもない。(「ラスト・ダンス」1987年より)
  次にマリリン・モンローの遺体が保存されている、ロスアンジェルスのウエストウッド・メモリアルパークでは、埋葬地の使用料金として、1区画(0.9×2.4m)9,000ドル(135万円)〜13,000ドル(195万円)という。そして有名スターの近くに埋葬されたい場合には、この後者の料金を出せばOK。(「GQ」89.6)
  現代アメリカの墓地に伴うしきたりの変化の原因としては、「死」に対する関心の無関心が原因という。こうした背景には、死亡率が減少して悲嘆体験のない者が増大していることと、定住者人口が減って、親や先祖の墓から遠く離れた土地に住まうことが上げられる。『サイレントシティ』の中で「伝統的アメリカの霊園の全盛期が1世紀続いたが、いまやその時代が、終わりに来ている」といっているが、日本でも同じようなことが言えないだろうか。(資料 K・ジャクソンと C・バーガラ の共著『サイレントシティ』1989)

 

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