1990.11
大正葬祭史

  今回の特集は前回の「明治葬儀史」に続いて、「大正葬儀史」を特集。

 

半数の市民が喪章を着ける(大正1年8月)

  明治45年7月30日に明治天皇が崩御され、国民一般に大喪中の喪章について取り決められた。和服の場合、衣服の左胸に蝶形に結びの黒布を着け、洋服の場合には左腕に黒布を着けるものである。朝日新聞記者が、8月9日午後2時から新橋で喪章着用調査を行なった。その結果、5分間に往来した199人の内、男性140人の着用率は56%、女性は59人の内40%という結果が出た。なお年令から言うと40才以上は着けない者が多かった。

 

明治天皇大喪(大正1年9月)

  明治天皇の大喪は、9月13日から3日間にわたり行なわれた。大喪費用は当時の金で150万円であった。午後8時、1発の号砲を合図に明治天皇の霊柩を乗せた轜車(じしゃ)は、78対の松明(たいまつ)に導かれて宮殿を出発。轜車が青山の葬場殿に到着したのは夜の10時56分。葬場殿の儀が終わったのは午前零時45分である。夜間の葬列のため、その準備も大変だった。
  皇居の正面の二重橋から西の丸の馬場先門までの間には、約20メートル間隔で高さ6メートルの根越榊10対を立て、その土台には約45センチの白木の台に白木の枠を設けた。榊の梢からは黒白、あるいは濃い鼠色の帛(絹布)を垂らし、榊と榊の間に約18メートルの間隔で、高さ3メートルのガスのかがり火を20対設置した。このかがり火は赤松の丸太3本を組み合わせて作ったもので、これにしめ縄を張り、さらに榊のかがり火の後方には10対のアーク灯を点じ、辺り一帯を真昼のように照らした。馬場先門からは36メートルおきに9メートルの柱を立て、その上にアーク灯をつけた。その間に18メートルおきに、黒白の布を巻いた間柱を立て、頂上から幡旗をつるし、途中で緑葉の環を付けた。さらに柱と柱の間には銀色、あるいは黒白の喪飾りを施した。麹町大通りは車道と人道との間に黒の幔幕を張り、各戸に白張りの提灯を掲げた。
  青山大葬場入口左右には、擦りガラスをはめた高さ8メートルの白木作りの春日形大燈篭一対を立て、総門の左右には清涼殿形の吊り燈篭4個を立てて、夜間の葬列にふさわしい備えをした。

 

乃木大将夫妻の葬儀(大正1年9月)

  明治天皇大葬の当夜、霊柩発引の号砲を合図に自刃を遂げた乃木大将夫妻の葬儀が9月18日に行なわれた。午後3時赤坂の自宅を出棺、青山斎場に於て神式の葬儀を執り行なった。午後2時半にラッパの合図第1声とともに、前駆並びに花旗の行列を整え、第2声で大将の棺を載せた砲車、及び夫人の棺を載せた馬車の出発準備に取り掛かり、葬儀係はいずれも行列位置についた。次ぎに会葬者一同出発準備をして、第3声「気を付け前へ」の合図とともに行進が始まった。午後4時、祭式が始まり、4時25分、道路に整列した1個連隊の儀杖兵は、「命を棄てて」のラッパの吹奏を終えて、一斉に銃口を天に向け3発の弔銃を発射した。
  午後5時頃より一般会葬者の参拝が始まった。葬儀委員の3名は椅子に登って「礼拝が済みますれば、すぐにご退出を願います。後がたくさんでございますから、何とぞ早くご退出を願います」と声を嗄らしても、棺前で泣き伏して棺の前を去らない人もいた。5時45分には、一般の参拝を差し止めたがなかなか人は減らず、なかには白髪の老人が懐から祭文を取り出し、涙を流しながら朗読し始め、委員が「ご祭文はそこに置いていただきます」といっても聞き入れないというひと幕があった。

 

憲法学者の死(大正1年10月)

  憲法学の権威、穂積博士が鎌倉の別荘で10月5日死亡。翌6日、東京の自宅に遺体が帰った。葬儀は9日、豊島区の染井墓地にて行なわれた。午前に出棺祭を行ない、午後1時、小石川原町の自宅を出た。葬列は榊・旗についで、祭官が従い、次に勲章3個を大学生が捧持し、幾百の供花が2列になって進んだ。次に「従三位勲一等法学博士穂積八束乃柩」と書いた銘旗。博士の遺体を納めた桧(ひのき)の柩が続いた。白丁(はくてい)30人が担いだ柩の上には大礼服と礼帽が載り、墓場へと向かった。

 

名古屋に葬式電車製作(大正4年3月)

  名古屋市の八事に火葬場完成にともない、そこまで会葬者を電車で運ぶプランが立てられた。そこで尾張電鉄は葬式電車の製作をメーカーに依頼した。電車の側面中央には1.8メートルほどの観音扉を作り、そこから棺を出し入れをし、中央の柩台に安置するのである。この電車は大正10年頃から運転されていたという。

 

海軍機が横須賀に墜落、乗員3人死亡(大正4年3月)

  6日午前、3人乗りの海軍飛行機が墜落、乗組員3名が死亡した。このため、14日に海軍葬が行なわれた。14日正午、水交社を出棺、青山斎場にて葬儀が営まれた。当日午前9時30分、葬儀委員を初め遺族、近親者が控える所に、祭主、5名の祭官を従えて霊前に進み、玉串を捧げて棺前祭を行なった。式がすむと海兵団より派遣された水兵の一隊は砲車を玄関に差し回し、黒布に包まれた白木の棺をそれぞれの砲車の上に載せた。海軍軍楽隊の「葬送行進の曲」の哀音に送られて出発、午後1時40分に青山斎場に到着。葬列は軍楽隊の吹奏とともに斎場に入り、式典が始まった。祭文朗読、弔辞朗読のあと、軍楽隊の「海行かば水漬く屍」の吹奏があり、続いて喪主、親族の玉串奉典等が行なわれた。

 

東京の墓地問題深刻に(大正4年8月)

  当時の8月4日の新聞記事によると、東京の墓地面積は44万6千坪で、もはや新たに墓地を作る余地がないのが現状という記事があった。しかも死亡者数は年々増加して、1万坪の土地を要する事情に迫っているので、市の用地課では郊外に数万坪の敷地を選定する必要に迫っているという。しかしこの地域選定が地方人から歓迎されないため、土地の取得が困難であることが予想されるとある。なお東京市は墓地の永久使用料に、1坪に対し1等6円、2等3円、3等1円50銭、4等60銭で貸与した。

 

政治家、井上馨の葬儀(大正4年9月)

  9月7日午前7時35分、候爵邸に「気を付け」のラッパの第1声が響いた。7時50分、第2ラッパを合図に霊柩は表玄関から引き出された。白の被いの上には大礼服と剣が載っている。棺は長さ4.2メートル、幅1.36メートルの桧の屋形造りの蓮台に移され、前後に15人ずつ、肩代わりを加えて60名によってかき上げられて出発した。
  午前9時50分、葬列は日比谷公園に到着。総門より馬車、自動車の人も皆、徒歩で入場。霊殿は間口9メートル、奥行き8メートルで、正面南方に北向きに建てられた。内面周囲には白地に黒く家紋の桜菱を染め抜いた幔幕を張り渡し、正面を引き絞っている。棺が霊殿の壇上に安置されると、大導師は衆僧を率いて読経を行ない、10時20分、式を終えた。

 

文豪、夏目漱石の葬儀(大正5年12月)

  夏目漱石の遺体は故人の希望により、12月10日午後1時40分より、医科大学病理解剖室で解剖された。作業は3時30分に終り、遺体は再び邸宅に帰った。翌11日は通夜が行なわれた。白絹の被いが掛けられた棺の上にはケーベル博士の花輪が飾られ、「文献院古道漱石居士」と書かれた位牌を棺前に安置された。葬儀の当日は、午前7時半より読経が始められた。8時半に、第1の馬車に僧侶、次に棺馬車、次に遺族、親族など6輛の馬車に分乘して出発。柩車は9時半に青山斎場に到着。芥川竜之介がフロックコートを着て受付をした。柩は直ちに祭壇に安置され、その上に「夏目金之助之柩」と大書きした銘旗を掲げられた。10時半に読経が始まり、朝日新聞社社長の弔辞朗読が行なわれた。遺体は葬儀後、落合火葬場にて荼毘に附された。

 

陸軍大将大山巌の国葬(大正5年12月)

  12月10日に逝去した大山巌の国葬は、同17日日比谷公園で行なわれた。早朝より、日比谷公園正門から葬儀場の内外は、白い砂をまき掃き清められた。幔門から左右は黒白の幕を張り、正面の祭場は白木造りに白の幕を絞り、白の布で祭壇を設置。左右に立ち並ぶ幄舎は黒白段々の布で天井を覆い、同じ色で柱を包んだ。9時10分、行列が到着し、11時には国葬が終了した。再び霊柩は霊柩馬に移され、上野駅にと向かった。上野駅についた霊柩は、馬車に載せたまま、兵士20名によって担がれ、特別列車の待つ1番線へと向かう。プラットホームには鯨幕を張り、その中で鉄道職員、葬儀係員立会の下で馬車より柩を引き下ろして、特別列車内に運び入れた。列車の内部はことごとく白い幕で飾り、床だけは黒布を敷き詰めた。告別式のあと、霊柩列車は那須野へ向かった。

 

駐日アメリカ大使の葬儀(大正6年3月)

  3月7日、米国大使のガスリー氏は駒沢村のゴルフ倶楽部でプレイ中、脳溢血を起こし、聖路加病院にて同日死亡した。遺体は病院に安置され、夫人その他による通夜をし、翌朝入棺式を行なった。いったん遺体を大使館に移して祈梼式を行なった後、軍艦「吾妻」にてアメリカに移送。遺体は6月25日サンフランシスコに到着。米国政府出迎えの下で、遺体はアメリカ側に手渡された。そして31日、大使の故郷であるフィッツバーグ市の教会で、壮大な葬儀が執り行なわれた。

 

女優松井須磨子の葬儀(大正8年1月)

  大正7年11月5日、世界的に流行していたスペイン風邪に罹って、文学者の島村抱月が死亡した。47才である。その2か月後の1月5日午前2時、抱月と恋仲であった女優松井須磨子が芸術倶楽部の道具置き場で自殺した。5日午後7時半、抱月氏の時と同じく死面(デスマスク)をとり、同11時、納棺式を行なう。僧侶二人の読経によって式をすませ、遺体は黒幕で覆った舞台に移して、しめやかな通夜が行なわれた。翌午後1時より芸術倶楽部で告別式を終え、3時より青山斎場で葬儀が行なわれた。花輪に飾られた霊柩が斎場に着いたとき、これを見ようとする女性たちで道路には人垣がつくられた。

 

福井市役所会議場を葬儀に開放(大正10年7月)

  当時の福井市には公会堂の設備がないため、すべての会合が料理屋で行なわれていた。しかし料理屋も7、80名を収容できる施設はない。そこで市長は一般に市役所会議場を公開するとし、結婚式でも葬式でも使用してくれと述べた。(7月10日大阪朝日より)

 

総理大臣原敬の葬儀(大正10年11月)

  11月4日、東京駅で時の総理大臣原敬は短刀で刺され死亡。葬儀は遺言通り11日、郷里の盛岡で行なわれた。午後1時、位牌を安置した棺が原邸を出発。故人のへその緒が納めてある霊柩が大慈寺山門に到着すると、白丁の手によって
  本堂仏前に安置された。本堂は狭いために一般会葬者は本堂に上がる階段の上下に溢れ、山門に至るまで人で埋めつくされた。大導師の読経のあと遺族焼香、親族焼香が終り、葬儀委員長の挨拶の後一般会葬者の焼香が続いた。当日は雨で、行列を待っている人の中には雨具を持たぬ人が多く、沿道両側に置かれた焼香炉から、香煙が低迷し、葬列は霧の中を行くようだっという。

 

大隈重信の国民葬に宮型霊柩車の原形が登場(大正11年1月)

  1月17日は大隈重信の国民葬である。13日の新聞には「来る17日正午より日比谷公園にて告別式を行なうにつき、本大学は校葬の礼をもって葬送する。教職員および学生諸君は同日午前7時、校友諸君は8時まで大学に参集せられたし」という早稲田大学の死亡広告が載せられた。
  大隈邸での告別祭が終わると、すぐに霊柩は自動車に移された。柩の上は白桧の館型の屋根が作られ、扉は丸に花菱の家紋が飾られている。26騎の儀杖兵が捧げる鎗旗の中を「吹きなす笛」のラッパの曲に送られて、霊柩自動車が日比谷に向けて出発。玄関脇には出入りの者が100人、頭を下げて見送った。なお宮型の霊柩車が登場するのは昭和に入ってからである。

 

森鴎外の葬儀(大正11年7月)

  文豪森鴎外の葬儀は12日、途中葬列を廃して谷中斎場で仏式で行なわれた。導師読経に次いで喪主、親族の焼香が行なわれ、遺体は火葬にされた。

 

舞鶴で海軍合同葬儀(大正11年9月)

  8月26日早朝、カムチャッカ方面を警備中の軍艦「新高」が暴風雨で遭難、沈没した。殉難者300余名の海軍合同葬儀が、9月29日午後2時より舞鶴軍港で執行された。午後1時、江口葬儀委員長の命令で、大行列は行進を始めた。この時、加佐郡内の各寺院の鐘が一斉に鳴り響いた。
  葬列の先頭には海軍兵曹長が進み、「軍艦新高殉難者の柩」と書いた長旗が高く翻った。次は軍楽隊、その後に500メートルの花輪、花立ての列が続く。その後、儀杖隊2箇小隊の行進、次いで祭主、僧侶の列となり、その後に遺骨、遺品を載せた13台の砲車が進んだ。砲車の後は位牌を捧持する300の遺族たち、葬儀管理者、葬儀委員、遺族、親族、次いで儀杖兵1箇小隊、兵員、一般会葬者の順で、集合場所から1.6キロの道は、葬列のために約1時間埋め尽くされた。
  祭場は北に面して設けられ、場内正面には黒布を垂れ、東西14メートルにわたる遺骨、位牌壇は6段に重ねられ、すべてが白の布を敷き詰めてある。その前には2台の供物壇を設置し、壇の上に鏡餅を供え、その左右には生花、花輪が飾られた。

 

関東大震災(大正11年9月)

  9月1日、午前11時58分、我が国最大の被害をもたらした関東大震災が発生。遺体処理に従事する人夫が2日から募集され、「死体取り扱い人夫募集。日給5円、日払いで三食弁当つき」という文面のビラが貼りだされたが、応じる者は少なかった。『被服廠跡』(東京震災記念事業協会発行)によると「1度に4万4千人の焼死者を出した本所被服廠跡も、2日から死体処理に着手したが、『避難者の持ち込んだ家財道具は3日迄燃えて、消す人のない残り火はここかしこに炎を上げ、その間に肉親の遺骸を尋ねる人の右往左往する悲しい光景には手の着けようもなく、いよいよ火葬に着手したのは5日であった。同日は88人の人夫を雇い入れてその整理に着手したのであったが、これら人夫は余りの酸鼻(さんぴ)に堪えず、午後にはわずかに4人の者より留まり得なかった程で、この死体処理は多額の日当も人夫も誘うことが出来ず、夏の日のことであり、処理は急を要することとて、非常な困難をなめたのであった」とある。

 

大杉栄の火葬(大正12年9月)

  震災のどさくさのなかで、甘粕大尉に殺害された大杉栄ほか2名の遺体は、陸軍病院で解剖された上で、白木の寝棺に納められて、家族に引き渡された。なお棺の中の死体が大杉以外は不明なので、蓋を外して検分すると腐敗がひどくて判別がつかなかった。引取人の希望で遺骨として引き渡すことになり、3体の遺体は病院から落合村の火葬場に送られ荼毘に附した。

 

吉原で関東大震災の追悼会(大正12年10月)

死者・行方不明14万人を出した関東大震災が発生してから1ケ月。かっては死体が山と詰まれた吉原遊廓の池畔には、白木の箱8個に遺骨が詰められている。婦人矯風会は10月1日午前10時から、災害にあった娼婦1千人のために追悼会を催した。幹事は「私どもの力が弱かったため、この制度を撤廃できないうちに、哀れな犠牲者を多数出したのは申し訳なかった」と弔辞を述べた。岡山支部から上京した部員が花輪を霊前に捧げ、一同一斉に礼拝。引き続き祈梼、讃美歌の合唱で式を終えた。なお、「この讃美歌中、日蓮宗の供養がすぐ傍で始まり、ドンドコドンの太鼓の音と南無妙法蓮華経の唱名の声が入り交じって、双方のために敬虔の念を欠いたのみか、宗教家の道義心を疑わせた」との新聞記事があった。

 

朝鮮人遭難者の追悼会で主催者の失態(大正12年10月)

  10月28日午前10時より芝公園増上寺で、朝鮮人遭難者追悼大法要が開催された。会場の増上寺大本堂には朝鮮総督代理等約800人、朝鮮同胞約50人が参列。読経のあと一般来賓の弔辞朗読に入った。ところが当日の法要にもっとも力を尽くした朝鮮人小説家の弔辞朗読を除外し、そのまま焼香に入ってしまった。そのため氏は焼香の途中で霊前に進み出「この法要の主催者側の一人である自分を、故意に差別して、弔辞の朗読を差し止めるとは何事か。お前達が差別をするならば、自分にも覚悟がある。今日のことは忘れずに記憶せよ」と大声で叫び、その上で弔辞を読み上げたので、法要は混乱状態に陥った。
  レーニン死す。遺体は永久保存(大正13年1月)
  ロシア革命の指導者レーニンが1月21日、53才で死去した。1月27日、トロッキーらの火葬の主張に反して、永久保存処置をされたレーニンの遺体は、モスクワの赤の広場の霊廟に安置された。真冬にまかかわらず、何10万人もの人が最後の別れを告げた。

 

兵庫県が埋葬形態を調査(大正13年11月)

  兵庫県の衛生課で県下の死者の埋葬形態を調査した。その結果、墓地総数は約3万9千ケ所(昭和61年現在2万6千ケ所)。火葬場の総数は1723ケ所(昭和61年現在88ケ所)である。死者総数5万6千人中、火葬が約3万人、土葬が約2万4千人である。なお大正14年の全国の火葬、土葬数を見てみると、火葬55万2千人、土葬が72万7千人で、計127万8千人が死亡していたことになる。ちなみに平成元年の死亡者数は78万8千人で、当時の60%である。

 

華美を排して市営の葬儀を(大正14年5月)

  和歌山市では社会事業施設の一端として、一般の葬儀を取り行なうこととなり5月1日より実施した。和歌山市の葬儀用品は華美なことで全国でも有数であったため、改善をはかるために市が営業を開始したもの。1等24円70銭から3等10円48銭という安さで、貧困者の葬儀は市費で無料で執行することになっている。

 

葬列も届け出が必要(大正15年4月)

  4月1日から交通法規が変わり、葬列を出すにも事前に警察に届け出をし、許可を得ることが義務づけられた。これは自動車の普及に伴い、やむをえない制度といえるが、この当時はすでに都市部での葬列は少なくなっていた。

 

大正天皇、崩御(大正15年12月)

  12月25日、葉山の御用邸に療養中の天皇が死去。47才。

 

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