1990.06
死とレクイエム

  昔から葬儀には音楽が用いられてきた例が多い。日本では昭和天皇の大喪に葬送曲「哀之極(かなしみのきわみ)」が演奏されたのは記憶に新しい。
  今回のデスウオッチングでは、東洋と西洋の葬儀の音楽を尋ね、これからの葬式音楽の在り方を探ってみたい。

  キリスト教では死者のためのミサ曲であるレクイエムが用いられる。死者の霊が最後の審判に当たって、天国に入れられることを願う目的で行なうミサのことである。レクイエムという言葉は、カトリック教の式文が「彼らに永遠の安息(requiem)を与えたまえ」で始まることから取られた。死者が天国に入れるように神に祈る典礼であって、死者の霊に直接働きかけるものではない。従って鎮魂曲、鎮魂ミサという呼称は適当ではない。

  フランスの18世紀のカトリック教会の式典を見てみよう。式は中世以来の礼拝で歌われる葬送歌で始まる。これには朝課と賛歌からなる。朝課は三つからなり、賛歌は五つの聖歌からなっている。いずれにしろ葬儀では主の祈り、応答、そして「主よ、願わくば、あなたの下僕の魂を解き放ちたまえ」の祈りで終わる。それから鎮魂ミサが挙行される。ミサの終わりに「死者に安らかな憩いを」の終祭唱のあとで、聖職者達は棺台のまわりに集まって、「裁きを下し賜うことなかれ」と祈りを捧げ、リベラ、キリエ、そして主の祈りを唱える。聖水がまかれ、墓場への葬列の序曲である「慈悲深い」神への祈りが捧げられる。(「18世紀フランスにおける死生観の変遷」マクマナーズ参照)

  レクイエムは14世紀に基本的な形式が確立されたもので、18世紀後期になると充実した管弦楽を伴う作品が多く書かれた。死者ミサは死者の記念日(11月2日)に挙式される他、葬儀として行なわれ、また物故者の記念日(命日)に家族、親戚、知人らを集めて行なわれる。こうした追悼演奏は故人の偉大さを確認する行事の一環としてなくてはならないものとなっている。ケネディ大統領の死では各国で追悼行事が催され、ローマの教会ではストラビンスキーが自作のミサ曲を自分自身の指揮で行なっている。また最近では、ビートルズの元メンバーのジョンレノンの追悼行事が行なわれた。

 

音楽による葬儀/ハインリッヒ・シュルツ(1585〜1672)

  『音楽による葬儀』はドイツの君主、ポストフームス伯爵の埋葬儀式の教会音楽として1636年2月4日に演奏された。ポストフームス伯爵は死の1年ほど前に銅製の棺を作り、そこに聖書の文句や教会歌の詩を刻印した。そこにある詩は、死やこの世のはかなさを思い、復活や永遠の命を求めた言葉である。そして彼はこれらの詞句に曲をつけ、自分の葬儀の時に演奏するように定めたのである。彼の死後、妻と息子たちは遺言を守りドレスデンの宮廷楽長シュルツに作曲を依頼した。作曲者は完成した作品の序文で「肉体を離れて天国に至り、天上の霊たちや聖なる天使たちと交わる至福の魂の喜びを、暗示しようとした」と曲のイメージについて語っている。
  第1部「ドイツ埋葬式ミサ形式によるコンチェルト」は「私は裸で母の胎から生まれ出た。私は叉裸でそこへ帰って行こう。主が与えたものを、主が取り戻しになったのだ」という歌詞で始まる。
  第2部はモテット「主よ、あなたさえ私にあれば」で、「天にも地にも、私の尋ね求めるものはない」で始まる。
  第3部「シメオンのカンティクム」で以上の3部から構成されている。演奏時間、約31秒。

 

レクィエム ニ短調/モーツァルト(1756〜1791)

  モーツァルトの最後の作品であり、彼の死後完成された。ウィーンのヴァルゼック伯爵は、1791年2月に夫人を亡くし、『死者のためのミサ曲』を奉献することを思い立った。そしてその作者にモーツァルトを選んだ。この依頼は依頼主の名が伏せられたまま、死を半年後に迎えることになるモーツァルトにもたらされた。彼は他の作品の作曲の合間に『レクイエム』の作曲を続け、死の前日である12月4日まで続けた。
  モーツァルトの死後、妻のコンスタンツェはこのミサ曲をなんとしても完成させたいと決め、それに心を配る。依頼主からはすでに契約金の半額を受け取っており、作曲を完成させないと前金を返却しなけらばならないからである。そこで彼女はモーツァルトの弟子のジュースマイアに依頼し作品を完成させた。これを受け取ったヴァルゼック伯爵は、その楽譜を筆写し、自分の作品であることを公言した。そして妻の死後2年経た1793年12月にウィーンの教会で自ら指揮をした。その時のタイトルは、「ヴァルゼック伯爵作曲のレクイエム」である。演奏時間約57分。

 

一般民衆の為の葬送音楽

  メルシェの『18世紀パリ生活誌』をみると、当時のパリではどんな葬儀が行なわれていたかがわかる。教会で行なう儀式には宗教音楽がつきものである。「葬式というものはわびしい儀式ではない。金持ちは大きな灯明を立て、教会にあるありったけの銀器で飾る。寺院の列柱は黒幕で包み、豪華な刺繍をほどこした黒い掛布で棺を蔽い、パイプオルガンの低音の伴奏で、『深き淵より』を歌ってもらう。」
  葬儀、回向、埋葬料金は必ず教会に前納する。「お弔いの鐘は大合奏になさいますか、それとも小合奏になさいますか。これこれお支払い下さい。小は3突きで、大は9突きでございます。

 

死者のための大ミサ曲/ベルリオーズ(1803〜1869)

  1837年3月、『幻想交響曲』を作曲したベルリオーズにフランス政府から「レクイエム」の作曲依頼があった。7月28日に行なわれる7月革命の犠牲者たちの慰霊と、35年の式典で国王暗殺のために投げられた爆弾の犠牲となった将官への慰霊祭用音楽である。かねてから「葬送交響曲」の構想を抱いていたベルリオーズは、3か月という短い期間にこの大作をものにしている。初演は7月28日、パリのアンヴァリッド礼拝堂で行なわれる式典で演奏される予定であった。しかし式典が3日から1日に短縮されたため、この式典には演奏されないことになった。しかしこの曲は5か月後の12月5日、陸軍省の主催で、アルジェリア戦争で戦死した将軍と将兵の追悼式で演奏された。場所はパリのアンヴァリッドのサンルイ教会。ベルリオーズはレクイエム作曲にあたって、演奏される場所の下見をしている。アンバリットのサンルイ教会は、ナポレオンの棺が展示されているドーム教会の裏にある。式典では広い教会の窓は全部閉ざされ、壁には黒布が掛けられる。棺の周りに数多くの蝋燭を立て荘厳な雰囲気を作り出している。ベルリオーズはモーツァルトの「レクイエム」をマドレーヌ教会で聞いていた。そして音楽演奏ホールと教会での演奏効果の違いを前もって計算し、その場に応じて音量を増減させる必要があることを感じていた。またラテン語で歌われる聖句は知識人でもよく理解できないので、聖句の各節から一つの雰囲気を抽出し、それで曲を構成していったのである。演奏時間約85分。

 

レクイエム/ヴェルディ(1813〜1901)

  1868年11月、イタリアオペラ界の先駆者ロッシーニがパリで客死した。この知らせを聞いたヴェルディはその死を悼むとともに、彼の一周忌には「レクイエム」を捧げることを決め、作曲家を始め演奏家も無料で奉仕することを提案した。提案の結果追悼準備会が設けられ、作曲は12名の連作で行ない、完成期限は1年後の9月と定められた。しかしこの計画は合唱団や楽団が出演を拒否してきたことから頓挫してしまった。 それから5年後の4月、イタリアの国民詩人であるマンゾーニがミラノの寺院で倒れ、自宅での治療の甲斐なく40日ほどしてこの世を去った。この知らせを聞いたマンゾーニの崇拝者であったヴェルディは、彼の一周忌には独力でミサ曲を捧げることに決心した。彼はそのために、ミサ曲について徹底的に調査を始めた。6月の始めミラノを訪れたヴェルディはまずマンゾーーニの墓に詣でたあと、市長に合いマンゾーニの一周忌に「レクイェム」の演奏を行なうことを申し入れた。市長から許可をとりつけたヴェルディは翌年4月に作曲を完成させた。上演準備のためのリハーサルに入ったが、演奏会場の選定に手間取った。しかし結局サンマルコ寺院で行なうことに決定した。
  5月22日、マンゾーニの一周忌の当日、ミラノ市長の司会で「レクイエム」が初演された。演奏は110名の管弦楽団と120名の合唱団によって行なわれ、会堂にはイタリア国内はもちろん、海外からも多数の人々が集まり盛大な式典が繰り広げられた。演奏時間1時間37分。全体は7曲から構成されている。
  第1曲は「永遠の安息(レクイエム)を与えたまえ(入祭文)」と「主、憐れみたまえ」からなる。
  第2曲「怒りの日」。この章はレクイエムの中心をなす「続誦」の部分で、最後の審判の恐ろしさと、それを免れるための祈りから成り立っている。
  第3曲「主イエス(奉納文)」で「死んだ信者のすべての霊魂を地獄の口から解き放ちたまえ」と歌う。
  第4曲「聖なるかな(三聖唱)」、
  第5曲「神の子羊」、
  第6曲「永遠の光を(聖体拝領誦)」、
  第7曲「我を許したまえ(赦梼文)」この章はミサ終了後、司祭が白と黒のストラとカッパを着け、棺に近づいて祈る赦梼式にあたる部分で、全曲の終楽章に当たる。

 

レクイエム 作品54/サンサーンス(1835〜1921)

  サンサーンスがパリのマドレーヌ寺院のオルガン演奏者だった時に、郵政大臣リボンから、彼の死後「レクイエム」を作曲するという条件で、10万フランを遺贈された。1877年5月リボンが死亡すると、サンサーンスはその翌年スイスのベルンにて8日間でレクイエムを完成させた。初演は大臣の一周忌にあたる1878年5月22日に行なわれた。演奏時間38分。
  ワーグナーの死と葬送行進曲
  ワーグナーは1883年に、大勢のお供と冬を過ごすためにベニスにやってきた。古風なベンドラミン宮殿の最上階にある18室を借りきり次の計画に没頭していた彼に突然死が訪れた。このためウィーンから黄金の獅子頭のついた銅製の棺が届けられた。遺体は防腐処置が取られた。それからたいまつの火に照らされながらゴンドラで駅まで運ばれた。葬列はバイロイトに到着したあと、2月18日、バンフリートの庭園で葬儀が行なわれた。この時に流された曲が彼自身が作曲した楽劇『神々の黄昏』の中の「葬送行進曲」である。以後毎年、同地では音楽祭が開かれている。

 

レクイエム 作品48/フォーレ(1845〜1924)

  1887年12月31日に母親を失ったフォーレは、1月9日に「レクイエム」の作曲を完成している。そして1月16日パリのマドレーヌ教会で初演。演奏時間約40分。曲は「レクイエム」の形式に則り、7曲から構成されている。
  第1曲は「永遠の安息(レクイエム)を与えたまえ(入祭文)」と「主、憐れみたまえ」からなる。
  第2曲「奉納文」は「死者を罪と地獄から解き放ちたまえ」との祈願である。
  第3曲「サンクトウス」。
  第4曲、イエスに死者の安息を願う「ピエ・イエズス」、
  第5曲「神の子羊」、
  第6曲、死者の罪が許されるために捧げられる祈願である「リベラ・メ」、
  第7曲「天国にて」。これは棺が墓地に運ばれる途中歌われる聖歌で、普通のレクイエムにはないものである。

 

レクイエム ロ短調/ドボルザーク(1841〜1904)

  交響曲「新世界」(1893)の作曲者で知られるドボルザークは、かって3人の愛児を次々と亡くし、その悲しみを「スターバト・マーテル(御母はたたずむ)」(1877)に表現したが、1890年には「レクイエム」を作曲、翌年、イギリスのバーミンガム音楽祭で初演されている。演奏時間1時間34分。
  亡き子をしのぶ歌/マーラー(1860〜1911)
  「亡き子をしのぶ歌」はリュッケルト(1788〜1866)が自分の子供の死に直面してその心境を歌った400以上の詩のなかから、マーラーがその一部を選んで曲をつけたものである。この曲を作曲した当時マーラーは独身であったが、作品が完成して3年後にマーラー自身、自分の娘を失っている。初演は1905年1月、ウィーンで行なわれた。演奏時間約24分。
  第1曲「いま太陽は晴れやかに昇る」ニ短調。愛児を失った翌朝の父親の心情を歌ったもの。
  第2曲「いま私にはよくわかる、なぜそんな暗いまなざしで」。
  第3曲「お前のお母さんが」お母さんが戸を開けて入ってくるときに一緒に見られたお前の姿はもう見られない、という内容。
  第4曲「子供たちはちょっと出かけただけだ、とよく私は考える」
  第5曲「この嵐のなかで」嵐のなかで子供の葬式に直面した激しい感情が歌われる。

 

エドワード7世の葬列

  1910年5月、イギリス王エドワード7世の大葬が行なわれ代表を派遣した国は全部で70か国にのぼった。柩はウエストミンスターホールに安置され、翌日は歴史に残る葬列がロンドンの街を通過した。ピカデリー広場、パディントン停車場まで進むと、そこからは汽車でウインザー城まで運ばれそこで埋葬された。この行列の際、近衛騎兵隊のバンドが、ヘンデルのオラトリオ『サウル』(1738)から「葬送行進曲」を演奏した。なおヘンデルは同じ頃に、カロライン王妃のために『葬送アンセム』を作曲している。

 

五つの歌/レスピーギ作曲(1879〜1936)

  イタリアの作曲家レスピーギの「五の歌」は1917年に出版されたもので、三人の詩人の詩に曲がつけられたものである。
  第1曲はイギリスの詩人シェリーの「遠く離れた時」。
  第2曲は同じくシェリーの詩で「葬送歌」その内容は「粗野な風よ、涙の声のなかに深い悲しみの苦悩を歌によって広めよ。尊大な風よ、雲った風が悲しいなら、夜に弔いの鐘を鳴らせ。暴風よ、涙は無駄だ。裸の枝や森のために無口になる。弔いの洞窟あるいは深い海よ、余の不幸を悲しんでくれ」と続く。
  第3、4曲は略し、最後の曲はインドの詩人タゴールの詩「最後」につけられたものである。タゴールは、1902年に妻を失い、それからすぐに12才の子供と死別している。そうしたときにこの詩が書かれたという。「私は行くときが来た。お母さん、私は行きます。寂しい夜明けの薄明かりの中であなたが子供を求めて腕を延ばすとき、私は答えます。「赤ちゃんはそこにはいないと」。お母さん、私は行きます。私はやさしい風になってあなたを抱きしめよう。あなたが水浴びをなさるとき、私は水の上のさざなみとなり、何度もあなたに口づけをしよう。」

 

ロンメル将軍の葬儀

  1944年10月14日、「砂漠のキツネ」として知られたロンメル将軍は、ヒトラー暗殺計画の責任の一端をとって自殺させられたことは有名である。彼の葬儀は18日、国葬となった。棺は鉤十字の旗に覆われて自宅を出た。そしてウルムの公会堂に運ばれた。大群集のつめかける中で、最後にロンメルの家族とドイツ陸軍元帥がホールに入ると、軍楽隊がワーグナーの『神々の黄昏』から行進曲を演奏した。元帥の弔辞のあと、見事な花輪をロンメルの足元に置いた。その間軍楽隊は、『わが戦友』の曲を奏した。

 

哀歌(ラメント)

  ニューヨークタイムズに、最近イギリスで非宗教的な葬儀をするケースが増えてきているという。イギリスのヒューマニスト協会では、1週間におよそ200件も非宗教葬が行なわれているという。従って公の追悼行事はこれからも変わらないと思うが、一般には「ラメント」という形式が葬儀や追悼の音楽に用いられるようになるかも知れない。ラメントとは挽歌、哀歌などと訳され、死者を賛仰するトンボー(フランス語)、アポテオーズ(フランス語)も同じジャンルである。
  最も古いラメントにはシャルマーニュ大帝の死を悼んで作られたもの。獅子王リチャードの死を悼んで作られたものがある。ブラームスの『ネーニエ』(哀悼歌)は、個別的、具体的な悲しみを普遍的な浄化に高めている。またラベルの『クープランの墓』、『逝ける王女のためのパヴァーヌ』は音楽会でもよく演奏される曲である。今世紀では、ストラビンスキーの『トレニ』が代表的な曲である。

 

誄歌(るいか)の伝統

  日本では皇室の葬儀の際に歌われる声楽曲に誄歌がある。これは明治天皇の葬儀の時に、宮内省楽部の楽師によって復興された。その後は大正天皇の葬儀にも歌われた。歌詞は『古事記』倭建命(やまとたけるのみこと)逝去の条からとられた。
  昨年1月に逝去された昭和天皇の命日にあたる1月7日、皇居と東京都八王子市の武蔵野陵で一周年祭が行なわれた。山陵一周年祭の儀式は大喪の礼に次ぐ大事な儀式で、雅楽の「宗明楽(そうめいらく)」の演奏によって始まり、昭和天皇が安らかに眠りにつかれるように祈る儀式である。

 

真珠湾レクイエムによる大法要

  平成元年12月7日、戦没者の霊を慰め世界の平和を願う大法要が、ハワイ州の真珠湾と国立墓地で行なわれた。日本からは僧侶、信者、大正琴の奏者、歌手、作曲家など総勢600人が参加した。法要は午前中、国立墓地の丘に20人の僧侶による声明が流れ、宗教音楽「真珠湾のためのレクイエム」がシンセサイザーで奏でられると、370人の大正琴の合奏で日本の童謡が演奏され、大戦で亡くなった犠牲者の冥福が祈られた。

 

臨済宗管長の型破りの音楽葬

  平成2年1月7日、肝臓ガンで亡くなった臨済宗方広寺派管長、荒金天倫氏の音楽葬が行なわれた。「葬儀を行なわず、私を心の師として慕ってくれた故石原裕次郎氏の『粋な別れ』などの曲を流して、威勢よくユーモアたっぷりにやってほしい」との故人の遺言に従い、石原プロが企画進行を受け持った「音楽葬」が行なわれた。
  読経などの儀式は最小限に抑え、生の弦楽4重奏とコーラスによる裕次郎メロディーが、会場である三生院に流れた。

 

仏教とキリスト教の合同「声明、レクイエム」コンサート

  大阪空襲の犠牲者を追悼する慰霊祭は、昭和56年から毎年続けられている。5回までは普通の慰霊祭であったが、61年の6回目から「声明、レクイエム」と名付けられ、コンサート形式となった。今回、平成2年6月30日には大阪フェスティバルホールで、仏教とキリスト教の合同慰霊コンサートが行なわれる。プログラムは声明と、バッハの「マタイ受難曲」がステージで同時進行する。

 

Copyright (C) 1996 SEKISE, Inc.