1989.02
文学の中の「死」

  文学のなかの「死」の情景は一つのクライマックスともいえる部分で、とても大切なものである。ここに集めたものは、特に現代の小説を中心にしたものがおおく、その「死」の形もそんなに目新しいものではない。しかし、こうして死の部分だけを読んでいくと、何か共通のものが見えてくるような気がしてくる。文学のなかでも、現実の死に立ち会ったときと同じような感動を伝えてくれるのである。


乙女の死

『風宴』梅崎春生(1938)

  知らない人の死に立ち会うときの、青年の居心地の悪さと、やるせなさがうまく描かれている部分を見てみたい。学生である主人公は、友人のいる下宿に訪ねていき、偶然にも少女の死に会う。
  「その時、壁の向こうで腸の千切れるような悲痛な泣声が起こった。別の声がそれを押っかぶせて娘の名を呼んだ。きみちやん!きみちやん!段々呼ぶ声が乱れ始めたと思うと、血をはくような号泣がそれに取って代わった。幾人もの鳴咽が断絶しながら起こった。襖を開く音がして、慌ただしいスリッパの音がしどろもどろに乱れながら遠のいて行った。(中略)
  臨終。此の号泣を、此の下宿人は今皆聞いている。手も足も出ない下宿人達の心の姿勢は、此の上も無く奇怪なものに思われた。私は此の部屋にじっとすわっていることに、一種の不快な興奮を感じて、呼吸をぐっととめた。娘の名を連呼する泣声が再び烈しく起こった。鳴咽の声が仇に高まって来た。それにつれて、私の体にある袋のようなものがふくれたり小さくなったりするのが耐えがたく切なく感じられた。」
  このあと主人公の学生は、喫茶店で過ごし帰ろうとするが、友人がもう一度下宿につれて帰り、通夜に参列することになる。娘の母親に案内されて奥の間の八畳に行き、死んだ娘と対面することになる。
「私達は枕頭に並んですわった。どうしていいのか判らない。恐ろしく悲しいような、むなしいような気がする。手や視線のやり場がなくて窮屈な感じに耐え難くなった時、死床の裾を迂回して向う側にすわったおかみさんの手が、顔をおおった白い布をはぎとった。」

1938年(講談社より)

 

妻の死

『リツ子・その死』壇一雄(1950)

  小説家壇一雄が、結核で死の床に伏す妻リツ子を看取る、厳しい状況を描いたもの。医者に僅かな命と知らされた作者は、布団のなかに入っていても、なかなか寝つかれるものではない。
「リッ子は死ぬ。二三日中に。これは確実だ。煙になる。亡びる。消えてゆく。死とは何だ。どうとりつくろうても、分明けな現実の感銘に近よらない。相変らず、波頭の不吉な幻覚ばかりが、頭をしびらすほどの、恐怖の形で襲い寄るばかりである。」
  次にリッ子の母が、作者をより惨めな場所においやる。
「階上に上ってみるとリツ子の母が泣いている。私の袖を曳いて太郎の部屋の階段のところに連れだして、ぶるぶるふるえながら、
『まあ、壇さん。リッちやんな危篤ですげな、なあ』私は黙って肯いた。
『なんごと、かくしなさすと?親ですよ』とリツ子の母がかん走った。私も興奮から鼓動が部厚になってゆくようで、他愛もない遠い声のように聞えていた。」
  その夜は大雨で、停電となった。雷の音に合せるように、リッ子は苦しそうに声を上げる。
「唇を濡らしてやる。乳房の辺りだけまだしきりに浴衣を掻きのける。悲しいうめき声がつづいている。
明るい稲妻に、瞬間、リッ子の顔が蒼白く浮上った。すさまじい雷雨がすぐ続いた。『ウォー、ウォー』ともう一度おおきいうめき声である。そのままぐったり奈落に陥ちこむふうだった。呼吸だけ僅かにはあはあと残っている。(中略)私は相変らず、手首を静に握っている。ともすれば微弱な脈拍が絶え間のない波の音にまぎれそうになる。
『あっ』と左手をリッ子の口にかざしたが、もうリッ子の息は絶えていた。」

(新潮文庫より)

 

ぼけ老人の死

『悦惚の人』有吉佐和子(1972)

  姑の死で始まるこの小説、舅の茂造は84才の高齢でぼけが始まっており、妻の死にあっても、別に悲しんでいるふうでもない、嫁の昭子は舅のさまざま世話をし、茂造が俳個して交番で保護されているのを、連れ戻した数日後の夕食時のこと、
「『ママ、お祖父ちやんが変だよ』茂造は目を閉じたままだったが、急に形相が変わっていた。顔が長くなったように見えた。喉がごろごろと鳴っている。いびきではなさそうだった。手首をさぐっても脈がない。
  昭子が医者のところへ電話をかけている間、信利(夫)も敏も凝然として茂造を見ていた。顔色も変っている。血の気がひいたように思われた。信利は自分も茂造と同じ顔になっているのではないかと思っていた。戦場でまわりの人間がばたばた死んで行くのを見ていた頃が思い出されたが、あの経験とはまったく違っていた。平和なのだ、こうして親の死に目に会えるのだからと平静にそう思った。」

(新潮文庫)

 

船での死

『船長泣く』吉村昭

  漁船が遭難して多くの犠牲者を出すのは珍しいことではない。しかし海上という、いわば極限状況での死は、ドラマチックで悲惨なものがある。本書のなかでは、漁に出た漁船がなかなか漁に結び付かず、船員のなかに手足のむくみが出てくるものが現われる。最初に52才の機関長が死んだが、若い者たちに動揺を与えるまでには至らなかった。
  「遺体の処理について、船長を中心に会話が交わされたが、話はあっさりとまとまり、かれらは、異国に水葬という習慣があることを聞き知っていたが、海中に投棄でもするようなその処理方法は非情なものに感じられた。死者はあくまでも土に帰すべきもので、故郷の地、それが不可能の場合は船が漂着した地に埋葬することが、死者に対する儀礼であり遺族への義務であると信じていた。そうしたことから、かれらは水桶を棺桶代わりにして伝二郎の遺体をおさめ、船室に安置することに定めた。
  かれらは沸かした海水で遺体を丁重に清め、髭を剃り船室に運びおろした。そして、空の水桶のなかに遺体を押しこんだ」

(『秋の街』文春文庫昭和63年発行より)

 

胎児の死

『ガラスの結晶』渡辺淳一

  会社勤めの律子は、同じ会社の社員の子を宿し、妊娠4か月に至って堕胎手術を行なう。
「『かなり大きくなっています』
  膿盆の中央に白い胎児が横たわっていた。胎児は全体に薄い膜をかぶっているらしく、膜が端のほうで千切れて、そこから細い足がのぞいていた。2本の手と2本の足がある。顔と思われるところもたしかにある。目鼻立ちはまだはっきりしないが、中央に何か寄り集まった凹凸がある。頭の部分は少し黒みを帯びている。」
  このあと律子は、わが子をみつめているうちに可哀想になり、手放したくなくなり、医者に欲しいとお願いする。
「『君が…』
『いけませんか』
『いかんというわけではないが…』
『私のものでしょう』
  それはそのとおりだった。胎生4カ月を過ぎた子は未熟児として正式に火葬に付し、葬るのが原則であった。普通は堕した子はそんなことをしないが、するのが望ましかった。」

(『秋の終りの旅』講談社文庫昭和51年発行より)

 

師匠の死

『枯野抄』芥川竜之介(大正7年)

  松尾芭蕉の死を描いた短編で、大正7年の作である。このとき芭蕉は51才、四方から集まったきた門人たちに囲まれて静かに息を引き取ろうとしている。
「寂然と横たわった芭蕉のまわりには、まず、医者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら浮かない眉をひそめていた。(中略)
  芭蕉はさっき、痰せきにかすれた声で、おぼそかない遺言をした後は、半ば眼を見開いたまま、昏睡の状態にはいったらしい。うすものある顔は、かん骨ばかり露にやせ細って、しわに囲まれたくちびるにも、とうに血の気はなくなってしまった。とくに痛ましいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮かべながら、まるで屋根の向こうにある、際限ない寒空でも望むように、いたずらに遠いところを見やっている」
いよいよ師匠が死に、続いて末期の水の場面に入る。
「『では、御先ヘ』と、隣の去来に挨拶した。そうしてその羽根楊子をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そっといまわの師匠の顔をのぞきこんだ。実を云うと彼は、こうなるまでに、師匠と今生の別れをつげると云う事は、さぞ悲しいものであろう位な、予測めいた考えもなかった訳ではない。が、こうして、いよいよ末期の水をとって見ると、自分の実際の心もちは全然その芝居めいた予測を裏切って、如何にも冷淡に澄みわたっているのである。」

 

安楽死

『高瀬舟』森鴎外(大正5年)

  安楽死問題には必ず取り上げられる短編で、時代は寛政の頃。喜助という30才ばかりになる男が、弟殺しの罪で舟で運ばれる間に、身の上話をする。喜助は弟と二人で働いていたが、そのうち弟が病気となって家で寝込むようほなる。ある日、いつものように喜助が帰ってくると、弟が布団のうえに突っ伏しており、あたりが血だらけになっていた。
「…弟は真蒼な顔の、両方の頬から顎へかけて血に染まったのを挙げて、わたくしを見まわしたが、物を言うことが出来ません。息をいたす度に、傷口がひゅうひゅうと云う音がいたすだけでございます。」
  兄の喜助は、なんとかして事情を聞き出すことに成功する。
「『済まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうもない病気だから、早く死んで少しでも兄きに楽がさせたいと思ったのだ。笛を切った、すぐに死ねると思ったがそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力一ぱい押し込むと、横へすべってしまった。』」
  これを抜いてくれたら早く死ねると、何度も弟は兄に頼む。そこで喜助は抜いてやろうと、剃刀の柄をしっかりと握って引き出した。間が悪いことがあるもので、その瞬間に弟の世話をしてくれる婆さんが、戸口を開け、この有様を見、あっと云ったきり表に飛び出していった。
「婆さんが行ってしまってから、気が付いて弟を見ますと、弟はもう息が切れていました。」

(新潮文庫より)

 

父の死

『塩狩峠』三浦綾子(1968)

  この小説は、明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして列車を止め、多数の乗客の生命を救った永野信夫の物語である。信夫の中学が終る年に、彼の父が亡くなるが、その葬儀は遺言によってキリスト式に行なわれた。式のあと、信夫は死のことを考え始める。
  「朝夕床の中で、目をつぶっていると、信夫は死という字が、大きく自分に向かってのしかかってくるような圧迫を感じた。祖母の死といい、父の死といい、いずれも余りに急激であった。それは、有無を言わさぬ非情なものであった。そこには、全くの相談の余地も、哀願の余地すらなかった。せめて、二日、三日でも看病することができ、死んでいく者と残される者とが、話し合うことができたならば、いくらか悲しみは和らぐかもしれなかった。けれども祖母も父も、あっという間に意識を失い、ただおろおろと見守る中に息を引き取った。」

(新潮文庫より)

 

恋人の死

『愛と死』武者小路実鷺(1974)

  主人公には夏子という恋人がいた。そしてこの主人公は、一人神戸からヨーロッパに遊学の旅に出る。旅行の間でも二人の手紙のやり取りが行なわれていたが、帰りの航路のなかで主人公宛に電報が届く。それは、夏子が流感に罹って死んだとの通知である。
「人生は無情であり、悲惨なことはいくらでも起こり得ることを僕は理屈では知っていた。しかし自分がこんな目にあうとは、逢うまでは思わなかった。あんないい人間が、あんな丈夫だった人間が、こうももろく死ななければならないのか。あんなに逢いたがってくれたのに、遂に僕の帰るのを待てずに散っていったのが、どう思ってもあきらめがつかない。
  僕は誰もいない処をさがしたが、船の中だし、二等だったので同室のものが二人いるので、心ゆく許り泣くわけにもゆかなかった。人が寝しずまってあたりがしんとしているなかを、声がもれないように忍び泣いた。」

(新潮文庫昭和27年発刊より)

 

肺ガン死

『優しさと哀しさと』波辺淳一

  院長が倒れ検査の結果「肺ガン」であった。院長には病名を隠し、放射線治療など行なうが、ついに広がったガンが胸膜炎を起こした。
  「神野院長が最後の烈しい発作に襲われたのは、それから3日後の夕暮れどきだった。突然、夕立が襲い、それが通り過ぎるのを待つよううに、院長は咳きこみ、そのまま呼吸困難に陥った。いま骨ばかりになった院長の体が、海老のように丸くなり、酸素をもとめて、口だけが宙につき出される。部屋にはひゅうひゅうと低い角笛のよううな呼吸音だけが続き、両手が苦しげに喉をかきむしる。神野院長のまわりには、充分の酸素が送られ、静脈からは何本もの強心剤が流されているが、癌細胞でうずめられた肺は、もはや酸素をとり込み、吐き出す力もない。同様に癌で圧迫され、弱りきった心臓は、肺に血を送り込み、酸素をとり出す力もない。医師達は、いまはなすすべもなく、癌が最後の跳梁を欲しいままにするのを、ただ手をこまねいて見ているだけであった。
  やがて、雨が完全に上ったころ、神野院長は最後の力をふり絞るように、頭をもたげ、顎をつき出した。それから思いがけない大きな息を吐くと、すべての力が尽きるようにゆっくりと、頭から白い枕のなかに落ち込んだ。

(集英社文庫より)

 

子宮ガン死

『神々の夕映え』波辺淳一(1978)

  本書では、治療の見込のない重度障害児の手術と臓器移植の問題、また安楽死がテーマとなっている。こでは48才の子宮癌の女性で、大学で手術をしたものの手遅れで、夫が院長の知人のため、この病院に送られてきたものである。癌の末期は死を看取るだけなのだが、この半月間ほど彼女は激痛で苦しんでいた。ここでは主治医が看護婦から夫人の様子がおかしいといわれ、様子を見に来るところである。
  「私が病室に行くと、夫人はすでに目を閉じ、口だけでかすかに呼吸をくり返していた。宙に向けて軽く口を開けては閉じる、それは彼女の意志というより、体に残っている余力が、辛うじて口を動かさせているといった感じだった。夫人の横には長女と次女の二人がついていた。『いまから10分前に、こんな状態になって、もうう呼んでも全然答えないのです』長女の声は、さすがにうわずっていた。(中略)聴診器を当てたままにしていると、次女のほうが不審そうに私を見ているのがわかった。彼女の眼差しは、『ママが死ぬというのに、なにもしないの?』と訴えているようでもあった。私は婦長を見て「テラプチク」といった。それは強心剤だが、いまの夫人にはすでに効果があるとは思えなかった。むしろ現在の呼吸が弱った酸素欠乏の状態では、かえって心臓にショックを与える危険性があった。だが注射はするにこしたことはない。少なくとも次女はそれで納得するかもしれない。同じ死ぬにしても、第三者が納得できるだけの形を整えることが必要だといえた。」注射をうち、病室には西日が差すようになった。
「ドアの外を行く足音がして消えた。夫人の口から突然、引きこむような悲鳴が聞こえたのは、その直後だった。それはなにか電流にでも打たれたような急激で荒々しかった。次の瞬間、夫人の顎が落ち、思いがけなく大きな息が洩れた。

(講談社文庫より)

 

死の苦悶

『イワン・イリッチの死』トルストイ(1886)

  死んでいく人間の心理をたんたんと描写し、「死」の教科書には必ず登場する短編が本書である。主人公のイワンは平凡な男で、左の脇腹が痛いという意外は何処に病気というわけではなかった。しかしこれが原因となって不機嫌なことが多くなる。死や人生について考えることが多くなり、また家族との精神的な距離も目に付いてくるようになる。
  「結婚……それから思いがけない幻滅、妻の口臭、性欲、虚飾!それからあの死んだような勤め、金の心配、こうして1年、2年、10年、20年と過ぎていったが−すべては依然として同じである。先へ進めば進ほど、いよいよ生気がなくなってくる。自分は山へ登っているのだと思い込みながら、規則ただしく坂を下っていたようなものだ。(中略)こうしていよいよ終わりが来た−もう死ぬばかりだ!」
  イワンはこうして何日も何日も、死について悩み苦しむ。そして僧が来て聖餐式を受け、ほんの束の間気分が軽くなった。しかしそれは本当の解決にはならなかった。これから3日間彼は叫び通したのである。「その3日間、彼にとっては時間というものが存在しなかった。彼はその間ひっきりなしに、打ち勝つことの出来ない、目に見えぬ力に押し込まれた、黒い袋のなかであがき続けた。ちょうど死刑囚が首切り人の手のなかで暴れるように、所詮助からぬと知りながら、暴れ回った。どんなに一生懸命もがいても、次第次第におそろしいものの方へ近寄っていく、彼はそれを各瞬間ごとに感じた。」
  それから3日目の終わりで、死ぬ2時間前のことであった。このとき中学の息子が側に来ており、イワンはその手を取り、自分の唇に接吻した。息子も泣き、妻も絶望した表情でじっと夫を見つめている。彼は考えた。『俺が死んだらみんな楽になるんだ』と。そして手を一振りした。
  「すると突然はっきり分かったいままで彼を悩まして、彼のからだから出て行こうとしなかったものが、一時にすっかり出ていくのであった。四方八方、ありとあらゆる方角から。妻子が可哀そうだ、彼らを苦しめないようにしなければならない。彼らをこの苦痛から救って、自分ものがれなければならない。『何ていい気持だ、そして何という造作のないことだ。』と彼は考えた。『痛みは?』と自問した。『一体どこに行ったのだ?おい、苦痛、お前はどこにいるのだ?』」
  こうして彼が死を探したが、何処にも死はなく、そのかわりに光りがあった。これはほんの僅かな出来事であったが、彼は喜びのなかで死んで行くことができた。しかしかたわらに居る人にとっては、彼の臨終の苦悶はなお2時間続いたのであった。(岩波文庫より)
  トルストイがその17年前に完成した大作『戦争と平和』にも「死」の描写の印象深いものがある。主人公の一人アンドレイ公爵が戦争で負傷し、自宅で死を迎える場面である。
  「彼は懺悔式と聖餐式を受けた。一同はさいごの別れに彼のそばに行った。息子が連れてこられたとき、彼はわが子に唇をつけて顔をそむけたが、それは、苦しかったからでも、子供がいとしかったからでもなく……ただ、これで自分に要求されることは全部だと思ったからであった。けれども、息子を祝福するように言われると、彼は言われたことを実行して、まだ何かすることがありはしないかとでも聞くように、あたりを見回した。魂に見捨てられる肉体の、さいごのけいれんがおこった時、公爵令嬢マリアとナターシャとはそこにいわあせた。」

 

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